HOME独想録

 2015年3月の独想録

 
 3月31日 ウツの状態でもよいことがある
 精神安定剤の薬は少しずつ減らしている。1錠服用すると2時間弱くらい楽になるが、その後は息苦しいような、何ともいえな禁断症状の苦しみに襲われる。そのため、夕方まで3、4錠くらい服用する。夕方になると、不思議に苦しみはなくなり、そのまま就寝まで比較的穏やかな状態でいられる。しかし、毎晩必ず深夜か明け方に苦しくて目が覚めてしまい、そのとき薬を服用するが、6時に起床するまであまりよく眠れない。そのため、慢性的な寝不足状態がずっと続いている。安眠ができないのは辛いものである。
 もはや、私の苦しみはもともとあったウツの苦しみなのか、それとも薬が切れたことによる禁断症状なのか、わからなくなってしまった。とにかく私はもうけっこう長い間、苦しみに耐え続ける日々を送っている。いつまでそれに耐えられるかわからない。死ねば楽になるだろうということは常に考えている。だが実際に自殺しようとは思わない。そうしたら、家族を最低のどん底に突き落としてしまうことになる。それでも正直な気持ち、私はもうこの世に生きていたいとは思わない。
 そんな状態のなかでは、人は自然に哲学者になる。この人生の本質について、また、神は存在するのかしないのかなどについて、さまざまなことを考える。私は神にもう何千回も救いを求めたが、助けは得られていない。神は存在しないのかと思う。だが、この苦しみを受け入れることで、神は何か意図されているのかもしれないとも思う。
 ウツになると、あらゆることを悲観的に考えてしまう傾向が出てくることは知られているが、私もこの世のあらゆることが混沌として意味がないように感じられる。毎日毎日職場に行き、単調な事務作業だとか、頭を下げて靴底を減らして歩き回る営業の仕事だとか、世の中のほとんどの仕事は「世のため人のため」といった崇高な理念のようなものはほとんどなく、ただ奴隷のように無味乾燥な仕事をしているだけのように感じられる。このように感じられるのは、おかしいのだろうか? おかしいのかもしれない。どんな仕事だってそこにはすばらしい意義や目的があるのだろう。しかし今の私の頭では、この世界を正しく認知することができない。
 自分のこれまでの人生を振り返るときもそうだ。楽しいこともあったけれども、おおまかに言えば、私の人生の大半は苦闘の連続であった。挫折と失敗と屈辱が大半を占めている。それでも今までは若かったから「いつか見てやれ」という気持ちでがんばってこれたけれども、そろそろ社会的な引退が視野に入る歳になってしまっては、未来に対する可能性は無に等しくなり、何よりも致命傷は、何もかもやる気がしないという意欲喪失のウツになり(おまけに薬害に苦しむ)ようになってしまったことだ。これでは絶望的だ。その絶望感が私をさらに苦しめる。たとえ年齢が高くても、ウツにさえならず意欲が高ければ、60歳を過ぎて引退してからも起業したりなど盛んに活動して元気に過ごしている人も少なくないが、人間はウツになったらおしまいだ。意欲そのものが失われてしまうからだ。今まで好きだった趣味も娯楽も興味がなくなり、人と接するのがとてもめんどうになる。これでは起業なんてできるわけがない。歳をとってウツになったら、もう死んでしまったも同然のような気がする。
 それでも生きるために毎日会社に行き、ストレスと闘いながら働かなければならない。なるべくロボットのように感情を無にして、ただ黙々と働くようにしている。それは拷問に等しい辛さだ。
 しかし、このように苦しい状況を生きていることにも、一筋のよいことがある。
 それは、人に対してやさしくなれるということだ。ウツになると、自分のことだけでなく、あらゆる人々の抱える苦しみが、まるで自分のことのように感じられるような気がする。だから、苦しむどんな人も理解でき、その苦しみに対してやさしく接することができる人間になっていく。私自身も、以前と比較すればだが、そのような人間に少しはなれたような気がする。また、人はやさしくなると、自然と謙虚にもなるものだ。誰に対しても差別なくやさしくしてあげられる思いやりと謙虚な人になれるような気がする。
 とはいえ、ウツの苦しみの代価として、やさしい人間になることに、どれほど価値があるのだろう? ウツはあまりにも辛い。世の中を見渡せば、ウツとは無縁な冷たい意地悪な人が社会的にいいめを見ている事実がたくさんある。やさしくて謙虚な人は、この社会では軽く見られたり馬鹿にされたり、いじめられたりすることが多い。私はそのようなよい人たちが虐げられるような、この世の中がゆるせない。だから、万が一ウツが治り社会的に高い地位にもしついたとしたら、今まで私に屈辱を与えてきた連中に仕返しをしてやりたいという欲求が脳裏をかすめる。おおいに威張り腐って、傲慢になって、私を馬鹿にした連中を馬鹿にしてやりたいと思う。けれども、そのような思いが浮かんだら、すぐに消すようにしている。そんなことをして、いったい何の意味があるというのだろう。仮にそんなことができたとしても、残るのはただ虚しい気持ちでしかないであろう。私はそのような醜い事柄に関係したくはない。
 ウツになること自体は、別に恥ずかしいことではない。自分でいうのも何だが、この社会では、繊細な心をもった人は大なり小なりウツになるのではないかと思う。厚かましい人はならないだろう(だからといってウツにならない人はみんな厚かましいと言っているわけではない)。ただ、人は傷つくことが重なると、ウツになりやすいであろう。
 地上人生の目的のひとつが、やさしい人になること、謙虚な人になること、いわば、愛ある人になるためであるとしたならば、私には挫折とウツの経験が必要だったのかもしれない。
 それが真実かどうかは、死んだときにわかるに違いない。私の苦しみが天国の門をくぐり抜けるためのパスポートだとしたら、この苦しみはまさに「恩恵」ということになるだろう。

このページのトップへ