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 2015年11月の独想録


 11月16日 聖人・覚者の抱える苦しみ
 
私のウツの調子は、少しずつですが、快方に向かっているような気がします。今までは何もする気がなく、ただ横になってぐったりとしているだけでしたが、今では本やインターネットを読むことができるようになりました。といっても長時間はまだ無理で、すぐに疲れてしまい、その後は気分が落ち込みます。夕方から夜にかけては、「ウツは治ったのではないか」と思えるくらい調子がよかったりするときもあるのですが、朝起きたときからお昼過ぎまでの気分が最悪です。
 辛さに耐えるということは、いわば押してくる壁に対して必死でそれを押し返しているような感じで、とてもエネルギーがいります。何もせずじっと寝ているというだけでも、内面の苦しみに耐えるということには膨大なエネルギーが必要になるのです。
 私は正直、そんな状態を毎日毎日かれこれ3年くらい続けてきました。さすがに最近はもう疲れてきてしまいました。最初、その疲れはからだと心(脳)の疲れのような感じでしたが、最近の疲れは、何かずごく深い疲労感、いうなれば「魂の疲労感」といった感覚で、非常に根深く、生きることそのものが疲れてしまっている・・・といった感じになっています。たぶんこれは、脳の疲れというより、私が今までため込んできたトラウマ的なものが湧き上がっているような気がいたします。普通の人ならそれほど気にならない事柄であっても、私はそれに対して過敏に反応し、強い不安感や寂しさの気持ちが湧いてきていたたまれなくなります。これはおそらく、何らかの出来事によって過去の心のトラウマが連想され、それがよみがえってくるからではないかと思われます。
 たとえば今日も、奇妙な夢を見ました。私が中学生時代、初恋の女の子とバスの中で会う夢です。彼女とは同じ歳ですから、もう相当なおばさんになっているはずですが、夢に見た彼女は当時の少女のまま、可愛くて優しく、微笑んでくれました。私はとても幸せな気持ちになりましたが、その直後に目が覚めました。すると、彼女との苦い記憶がよみがえってきました。というのは、私は彼女のことが大好きだったのですが、勇気がないために「好きだ」と告白できず、そのまま卒業して別れてしまったのです。私はそのことが哀しく、残念で、その思いを数年くらい引きずりました(もっとも「好きだ」と告白したとしてもふられて結果的には哀しい思いはしていたでしょうが)。今までそんな40年も前のことなど思い出すこともなく過ごしてきたのに、今日の夢でその当時の苦しみがよみがえったのです。
 これだけでなく、ウツになると、ちょっとしたことでも悲観的になり、不安になり、悲しみと寂しさに襲われます。無意識的にそれと似たような過去のトラウマの経験が浮上してくるからであるように思われます。こうしたウツは治りにくいようです。
 他にも私は、「この人はすばらしい人に違いない」という人とたくさんの出会いを経験しましたが、しばらくすると、その人の裏の顔が見えて、つまり醜いところが見えて、その偽善性に失望するといったトラウマをずいぶん詰め込んできました。こういうことも、今の私のウツの原因なんだなあと考えています。そんなことがあるたびに、私は「人間嫌い」というより、「地上世界嫌い」になっていきました。人間は恨んではいません。なぜなら、人間は完全ではないし、欠点もあるし、間違いも犯すし、その点で私も人のことを責める資格はないからです。ただ、そのような不条理な「地上世界」を創造した「神」については、ちょっと文句を言ってやりたくなる気持ちは持っています(笑)。

 ところで、このような苦しみをなぜ味わわなければならないのか、以前はよく考えました。カルマの法則によれば、これだけ苦しい思いをするからには、過去によほどひどいことをしたに違いありません。しかし、少なくとも現世ではそんなにひどいことはしていないつもりなので、たぶん、過去生でひどいことをしたのかもしれません。しかし、過去生での記憶はないので、仮にひどいことをしたとしても、いったい何をどのように反省すればいいのかわかりません。そんなところが、「カルマの法則」で説明する限界というか、欠陥なのではないかと思っています。
 最近は、なぜこんなに苦しまなければならないのかという原因を探ることはやめました。いくら考えてもわかるものでもないし、そんなことを考えるエネルギーがなくなってしまったからです。今はただ、与えられた苦しみをじっと静かに受け入れるという、その姿勢で毎日を過ごしています。ある種の「無抵抗主義」です。

 では、聖人や覚者と呼ばれるような人は、苦しむことはないのでしょうか?
 彼らほど高い霊性を持っているならば、カルマ的な因果関係を超えているはずです。けれども、過去の聖人・覚者を調べると、覚醒したはずの彼らも、それなりに苦しみを背負って生きていたことが多いことがわかります。
 たとえば、古代ギリシアの哲人プロティノスは、彼の著述から覚醒したか、少なくとも覚醒に近い境地に達していたと思われますが、晩年は原因不明の奇病に襲われて苦しみながら死んでいきました。
 マザーテレサについては、このブログでも過去に取り上げたように、内面の暗黒と神への不信に苦しみ続けました。私はそれなりの個人的な理由を述べさせていただきましたが、それでも彼女ほど人類に献身している人に、そんな苦しみを与えなくてもいいではないかという気持ちは残ります。
 クリシュナムルティも覚者として知られていますが、彼は「プロセス」と呼ばれる苦しみをずっと味わい続けました。ほとんど毎日のように、ある時間がくると、1時間くらいだったかと思いますが、非常な苦しみが襲ってくるのです。彼の側近だった人は、クリシュナムルティの自室から苦しみのうめき声が響いてくるのを何回も聴いています(一節によれば、この苦しみはクンダリニーが上昇して不浄なものを浄化していることによるものといわれています)。
 釈迦でさえも、解脱を果たした後は順風満帆だったわけではありません。解脱をしたということは、カルマの温床を完全に根絶やしにしたことになります。ということは、過去の悪しきカルマが原因による悪い運命は起きないことになります。しかし、彼のことを嫉妬する僧侶の団体から嫌がらせを受けたり、言い伝えによれば、そのために軽い怪我もしていたようです。そして死ぬときは、毒キノコが入った料理を食べて(肉体的には)苦しんで死んでいきました。そのような原因はどこから来たのでしょうか? 何しろ覚者(仏陀)というのは過去のカルマの温床を完全に断ちきった人であるのですから。
 イエス・キリストに至っては、今更いうまでもありませんが、「自分も救えないくせに人類を救うなんて笑わせるな!」といった暴言を吐かれながら、十字架を背負って屈辱と苦痛に耐えてゴルゴダの丘に登り、ついには十字架にはりつけにされてしまいました。この点を「カルマの法則」から解釈したならば、これほどの苦しみを味わうということは、イエスは過去に相当悪いことをしたことになってしまいます。しかし、どうもそのようには考えられません(ちなみに、後のキリスト教会は、イエスは人類の罪を自ら引き受けて十字架にはりつけにされたと解釈するようになりました。だからイエスを信じる者だけが罪から解放されて天国に行けるという教義が生まれたのですが、私はその考えには異論があります。イエス自身もそんなことは言っていません。ただこの問題を論じると長くなるので、いつか別の機会でお話したいと思っています)。
 一方、日本人でまだ比較的若く、本も出していて「覚者」と見なされていた人がいました。しかしその人は結局、ガス自殺をしてしまいました。動機はわかりませんが、小さいときから地上で生きることに嫌悪感を抱いていたようです。覚者(もし本当に彼が覚者だとしたならばの話ですが)も自殺をするのでしょうか? スピリチュアルな考え方によれば、自殺した人は長い間暗い世界に幽閉されて苦しむと言われていますが、覚者もそうなるのでしょうか? それとも、覚者は別なのでしょうか? また、これは余談かもしれませんが、「ガス自殺」という、一歩間違えれば大爆発を起こして他の人を負傷させる危ない死に方を選択したという点も、私は気になります。覚者になってしまえば、そうしたことはどうでもよくなってしまうのでしょうか?

 いずれにしろ、聖人や覚者と呼ばれるような人でも、この地上に生きている間は、それぞれに苦しみがつきまとっていることがわかります。もちろん、言うまでもないことですが、私は聖人でも覚者でもないので、決して彼らと比較する意味で紹介したわけではありません。ただ私が言いたいのは、聖人であろうと覚者であろうと、まして凡人であろうと、カルマの法則とかそのようなことに関係なく、苦しみが訪れるときは訪れる、ということを言いたかったのです。実際、最初の方で紹介したプロティノスは、「苦しみは人間には知り得ない理由により、どんな人にも訪れる。たとえいくら偉い人であろうとそうでなかろうと関係なく」といった意味のことを言っています。釈迦はもっと単刀直入に「人生は苦なり」と言いました。
 ユダヤ教はこうした問題についてはかなり深く論議されていて、しかも正直です。ある賢者が天使を見かけたとき、その賢者は天使に向かってこう叫んだというエピソードが残されています。「君たち天国にいる者はいいよな(天使は地上で生きた経験を持っていない霊的存在とされている)。俺たち地上で生きる者の苦しみなんて、君たちには決してわからないだろうよ!」

 人間の本性は苦しいときに現れる。どんなに苦しくても人間らしく生きられるか、どんなに苦しくても他者への愛を忘れることはないか、周囲がいかに不条理で腐っていても、自分だけは正義を貫き、まっとうな生き方ができるかどうか、苦しみから霊性を高めていけるか、死後、霊的世界で大きな仕事ができる人間であるかどうか・・・、こういったことが試されているに違いない。
 その試され方は、しばしば生半可ではない。極限までしごかれることもある。それだけ、霊界を含めたこの世界というものは甘くはないということだ。希望を失わず、自分を信じ神を信じ、何度くじけようと最後まで粘り強くあきらめなかった人が、テストに合格し、道を開いていく。全力を尽くすことなく、くだらないことで人生という貴重で限られた時間を無駄に過ごし、自分を成長させることに真剣に向き合わなかった人、人生を本気で真剣に生きなかった人は、死後、人生は失敗だったことがわかり後悔する。


 11月19日 ブログに寄せられたコメントに対する私の弁明と基本的な姿勢

 ブログの方で「管理者だけがコメントを見れる」という入り口から次のような内容のコメントをいただきましたので、この場を借りて私の弁明と、私の基本的なスタンスについて話したいと思います。
 送られてきたコメントを一言でまとめると次のようです。
「斉藤さんからは、聖人に対するひがみの拡大解釈に基づく執拗なまでの聖人への怒りと嫉妬のような妄想がある」とあり、最後は「正直も過ぎれば災いのもとになることを、気づかれますように」と結んでいます。

 私の文章の書き方に問題があったのかもしれませんが、この方は私の書いた文章を完全に誤解しています。よく読んでいただければわかると思いますが、私は聖人・覚者の悪口を言いたかったのではなく、彼らほど人間的に完成された人がなぜ苦しみを味わうのかという、その疑問をぶつけただけです。実際、たとえばマザーテレサについても、過去のブログを読んでいただければわかるように、私は彼女の苦しみについて肯定的な意味づけをしていますし、今回もプロティノスに対しても、彼の苦しみは彼自身が悪いわけではなく、「人間には知りようもない理由によって苦しみが訪れる」といって弁明しています。イエスについてもそうです。

 私の文章を読んで、この方のように感じた人が、たとえば百人のうち半数以上いたとしたら、私の文章の書き方に問題があったか、あるいは私自身も気づいていないところで、実際に私は聖人を憎んでいるのかもしれません。そのことを確かめるために、統計をとってみたいくらいです。

 私は聖人・覚者に怒りや嫉妬などは持っていません。少なくとも、持っていないつもりです。なぜなら、私が心から尊敬する聖人や覚者はたくさんいるからです。
 ただ、世の中には自称「覚者」と称して、人をだましたりしている人がけっこういるようなので、安易に信じないよう注意しています。ただみんなが「聖人・覚者だ」と言っているからといって、また本や講演などですばらしいことを説いているからといって(言葉などいくらでも立派なことは書けます)、その人を聖人や覚者だとは認めません。あくまでもその人の行動を見ます。覚者なら、他の人を巻き添えにして迷惑をかけるガス自殺のようなことをするでしょうか? 私は正直にそう思います。しかしその「覚者」の弟子たちは、常識では誰もがそう思うような彼の行動について否定していないのです。それは「覚者のやることに間違いはない」と洗脳されているからだと思います。
 たとえ聖人だろうと覚者だろうと、「おかしいものはおかしい!」と言える勇気が大切なのです。この点では、戦後GHQによる意図的に行われた「日本人であることを卑下し権威に対して従順的にさせる。自分で考えることはさせないようにする」という影響のせいもあるかと思います(このテーマについては興味深いので、いつか取り上げたいと思います)。

 私はそのような、ある特定の人物を盲信して、明らかに地上的におかしいと思うようなことから目を背けることはしません。相手が聖人と呼ばれようと覚者と呼ばれようと、常に地上に足をつけた常識的な(仏陀の言葉を借りれば「中道」)の考え方をするようにしています。いくら聖人だろうと覚者と呼ばれていようと、おかしいと思ったらおかしいと思うとはっきりいいます(もちろん、私の考えがおかしいという可能性も自覚した上での発言です)。もちろん、すばらしいと思ったらすばらしいと言います。しかし、すばらしいと思ったからといって、その人が完全無欠であると信奉するようなことはしません。

 このような私の姿勢は、聖人や覚者といった人を狂信している人から見れば、私の考えを否定したくなるでしょう。「それはひがみだとか、妬みだとか、怒りだ」とか、いろいろ理屈をつけて責めてくるでしょう。

 私もこれまで多くの本を書いてきて、そして感想をいただきました。そこで気づいたことは、本の内容を自分の都合のいいように解釈して理解している人がけっこう多いということです。たとえば、S学会の信者さんが、私のある本について「私の信仰している内容と同じことを言っているすばらしい本だ」と言いました。私は驚きました。よく読んでいただければ、その内容は逆にS学会のような団体を否定していることがわかっていただけるはずだからです。結局、どんなことも、人は自分心の鏡を相手に投影して理解していることが多いのです。

 今回のコメントにしても、私はむしろこのコメントのなかにこそ、書いた人の「怒りや嫉妬」を感じました。たとえば「正直も過ぎれば災いのもとになることを、気づかれますように」という、一見穏やかに書かれていますが、見方によっては「脅し」とも感じられる文章、また、私に対する読者の方からの励ましのコメントについても「斉藤先生の聖人ヘの不信感をさらにエスカレートさせることをひそかに楽しんでいるかのような、怪しげな妖気が行間に感じられます」と書いておられます。「ひそかに楽しんでいる」、「怪しげな妖気」といった言葉は、まず普通に考えるなら、「そんなことは感じるかなあ」と疑問に思います。そこに悪意や否定、攻撃的な気持ちが入っていなければ、たぶん使うことはないと私は考えます。

 さらにいえば「気づかれますように・・・」という言葉には、「自分は真実を知っている。あなたは知っていない。哀れな人だ。だから気遣ってあげているんだ」というような、言葉にしてしまえばそのような考えが見え隠れします。要するに「上から目線」でものを言っている傲慢さを感じます。

 結局、自分の心にあるものを、私に投影して自分自身の心を見たにすぎないのです。
 もちろん、彼の言っていることが事実である可能性もあります。私はそういう可能性もあるのだと自分に言い聞かせて、決して「自分だけが正しい」とは考えないようにしています。そう考えたら、それこそがまさに「妄想」でしょう。

 もしかしたら、私が否定した(とその人が誤解した)聖人や覚者の中に、その人が信奉している人がいたのかもしれません。そのために、怒りを覚え、その怒りを正当化するために、その原因を私に投影したのかもしれません。これはよくあることです。

 ただ、いずれにしろ、このブログは宗教団体の場ではなく、特定の価値や教義を教えることを目的としているのでもなく、あくまでも探求の場としてありますので、今回のような批判的なコメントも大歓迎です。それによって、私が間違っていたと気づくこともあるからです。私は自分が間違っていたと思ったら素直に認めます。しかしそう思わないときは、私も反論します。この場ではすべての人が平等です。私は権威者ではありません。私の言うことは信じないでください。あくまでも、自分の頭で考えるための「ヒント」や「参考」程度にしてください。それがこのブログの目的です。
 それから、批判や反論はけっこうですが、その場合、「管理者だけがコメントを見れる」ではなく、誰もが閲覧できる場所にコメントをください。そうすれば、そのコメントに対する賛否両論の意見も出てくるでしょう。そうしてますます私たちは思索を深めていくことができるでしょう。

 くどいようですが、日本人は自分の頭で考え、自分の信念を確立して自分らしく生きるということにおいて、海外の国々から見れば、はるかに遅れています。周囲に追随しようとし、誰かに依存しようとします。とりわけ宗教やスピリチュアル的に自立していない人が多く、そのために「楽をして悟りを開ける」的な本やセミナーやカルト集団にだまされてしまうのです。
 テレビなどのマスコミも、「日本人を馬鹿にする計画」の支配下におかれています。有益なテレビ番組もあることはありますが、ほとんどの番組は有害です。あんなものを見ていれば日本人はますます馬鹿になっていき、独創性を失い、自分で考えることをしなくなります。そして、自分の考えと合わないものに出会ったら、自分自身を反省するのではなく、相手に投影して相手のせいにします。その方が自分が傷つかなくてすむからです。

 しかし、人は傷つくことなくして成長することはできません。真の求道者は、失敗や傷つくことを怖れず、むしろ自らそれを糧にして成長していくものです。
 自慢ではありませんが、私がこのブログで自分の恥ずかしい状態を正直に書いているのも、いかなる批判をも受け入れるのも、そのためです。
 しかしほとんどの人、自称聖人や覚者も含めて、自分の都合の悪いことは隠そうとします。そしてその表の顔だけを見て、すぐに「聖人」や「覚者」に頼って狂信的になったり、甘い言葉でお金を巻き上げようとする本や情報商材やセミナーや、その他悪徳商法や詐欺に簡単にだまされてしまうのです。
 表面的なことにだまされてはいけません。この地上世界には常に表と裏があります。表だけでなく、裏を見ることから目を背けてはいけないのです。

 私の「恥ずかしい面」を見てがっかりし、このブログから去っていった人も少なくないと思います(実際、それが原因かどうかはわかりませんが「拍手」の数が少なくなっています)。でも、私は気にしません。そういう人は「表」だけしか見ることができないからです。「表」だけを見ることしかできない人は、イエスに対して「自分も救えないのに人を救うなんて馬鹿なことを!」と暴言を吐いた人と共通しています(もちろん苦しみの原因についてはイエスと私の場合はまったく事情は異なりますが)。

 また、自分より優れている、強いと思った人には称賛し媚びを売ったりしますが、自分より劣っている、弱いと思った人には威張ったり馬鹿にしたり、なめたりする人がいます。残念ながら、世の中にはそういう人が少なくありません。私はそういう経験を嫌というほど味わってきました。しかし、そのような人間は、私から言わせれば、「スピリチュアル」どころか、そもそも人間として最低であると思っています。そんな人はこのブログを読んで欲しくありませんし、また読まないでしょう。

 私がウツであることを隠し、いかにも立派な言葉だけをブログで書いているだけであれば、読者も増え、私に批判的なコメントを書く人も少なくなるでしょう。聖人や覚者として称賛され、名声もお金もたくさん集まってくるでしょう。
 しかし、イエスはなぜあのような屈辱と苦痛に満ちた姿を世の中にさらしたのでしょうか? 彼ほどの聖者であれば、そのようなことは避けられたはずです。しかしあえてイエスはその道を選んだのです。いったいそれはなぜでしょうか?
 それは、彼が表も裏もすべてさらけだした真の聖人であり、つまりはそれだけ「正直」だったわけであり、自らの生き様を通して救われる道を示した真の教師だったからです。

 イエスは十字架にかけられたとき、「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と嘆いています。これだけを見ると、多くのキリスト信者はがっかりすると思います。しかしイエスは最後にこう言っています。
「すべてを神の御心にゆだねます」
 ここがもっとも重要なところなのです。「すべてを神の御心にゆだねる」ということが、救いの最終地点なのです。
 表現は悪いですが、「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と言ったのは、ある種の「芝居」だったのです。本意でそう言ったのではありません。人間である以上、この地上に生きている限り、そのように思うことはいくらだってあるし、そう思って当然だということを示すために、そのように言ったのです。ここには地上世界に生きて苦悩する私たちに対するイエスの愛が込められています。
 そして、そう悩んだ末の最終的な救いの回答が「神にすべてをゆだねます」ということだったのです。
 イエスは、「このようにして救いは得られるんですよ」ということを、口先だけでなく、身をもって(手本として)それを示したのです。
 それゆえに、イエスほど偉大な聖人・覚者はいないのです。もちろん、聖人・覚者に優劣をつけるつもりはありません。また念のためにいいますが、私はキリスト教徒ではありません(どの宗教の信者でもありません)。
 しかし、自らをあそこまで犠牲にして人々に身をもって手本を示したという点で、イエスほど深く大きな愛を持った偉大な聖人はどこにもいないのです。

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