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 2015年4月の独想録



4月6日 ありのままで生きる
 私がウツになってから、ここでいろいろと書いていることについて、私の友人から「そんなことまで書かない方がいいのではないか」と言われた。
 確かに、人を癒すカウンセラーをしていたり、覚醒や悟りといったことを書いたりしている私が、ウツになって苦しんでいることを表明するのは、恥をさらすようなものだろう。いわゆるイメージダウンとなり、がっかりして離れていく人もいるに違いない。「なんだ、単なる俗物にすぎないじゃないか」、「なんだ、弱い人じゃないか」といって。
 けれども、できる限りありのままの自分をさらけ出して生きるというのが、私の信念であり生き方なのだ。私は「嘘」がない生き方がしたい。とはいっても、それを徹底できるほど強くはないので、「できる限り」という前置きがついてしまうけれども・・・。
 この世の中は、嘘だらけである。表と裏に満ちている。
 たとえば、もし宗教の教祖になったとしたら、完璧な人間を演じなければならない。いや、「人間」であってはならない。「神」とならなければいけない。いかなる人間的な欠点もゆるされない「神人」にならなければならない。さもなければ、信者をかこっておくことはできなくなり、組織として運営ができなくなるからだ。教祖は完全でなければならないのだ。
 けれども、そのような人は、おそらくこの世の中には存在しない。
 教祖や宗教的なリーダーの立場にある人は、ただ自分の欠点や醜さ、弱さを隠しているだけである。
 若かった頃、私は何人かの宗教的指導者に憧れ、それこそ何の欠点もない神のような高潔な存在であると思っていた。けれども、そのような指導者に近づいていくにつれ、さまざまなスキャンダラスな噂が耳に入ってきた。表で言っていることと、裏でやっていることが違うのである。
 そんなことを間接的に、また直接的に知るにつれ、若かった私の心は傷ついて失望した。そして、そのような欠点を必死になって隠そうとする本人や側近たちの態度が醜いものに感じられた。そんなことは知らずに(あるいはあえて目をそらして)、何の欠点もない存在として教祖を神格化する信者たちが、よくいえばロマンチスト、悪くいえば「お人好し」に思われた。この世の中に「完全なもの」はない。それがあると思う人が、おかしな宗教だとか悪徳商法などにだまされてしまうのだと思う。彼らは善い人ではあるかもしれないが、精神的には幼い。何かに依存しないではいられないのだ。
 私が何の欠点もない存在としてここに文章を書いたなら、そんな幼稚な人たちをたくさん引きよせて人気が出るかもしれない。だが、そんなことに何の意味があるだろう(金は儲かるかもしれないが)。それは虚偽ではないだろうか。第一、私は完全さを演じなければならないような、そんな窮屈な生き方、また、ある意味で人をだますような生き方はしたくない。真実は、俗っぽさを隠そうとする人こそが俗人であり、弱さを隠そうとする人こそが弱い人ではないのだろうか。表と裏に満ちているこの世界にあって、あえて表も裏もない生き方をすることこそが、人生を真に生きるということではないだろうか。
 だから、私は自分の醜さも弱さもなるべく隠さないようにしたい。最初から隠さずに、ありのままの姿をさらけ出していれば、誰をも傷つけたり失望させることもないだろう。完全な「教祖」を求めるような人は、最初から寄ってはこないだろうから。
 こうした生き方が、せめてもの、私の文章を読んでくださる方々への誠実さだと思っている。私の「不完全さ」の体験の中から、何か参考になるものを得ていただければという願いを込めて文章を書かせていただいている。だからこれからも、友人の忠告は無視して、どんどん弱点や欠点を書いていこうと思っている。
 完全さを演じて愛されたとしても、真に愛されていることにはならない。醜さや欠点を知りながらもなお愛してくれるのが、真の愛であろう。私は幻想の愛など欲しくはない。私が欲しいのは真実の愛だ。

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