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 2015年10月の独想録


 10月21日 その後とのウツの調子
 前回、ブログで私がウツになったことを紹介したところ、たくさんの読者の方々、また友人・知人から励ましのメッセージやメールをいただきました。この場を借りて心より御礼申し上げます。こうした皆様のあたたかいお言葉の方が、薬などよりずっと気持ちを穏やかにし、元気づけてくれます。本当にありがたいと思っています。私はそんな皆様に幸運が訪れますことを祈ります。もっとも私が祈らなくても、こうした(よい)カルマは、いつか必ず善い結果として訪れるでしょう。霊的世界の掟によれば、不純な動機で莫大な寄付をするより、真心をもって苦しんでいる人に優しい言葉をかけてあげることの方が、ずっと高く評価されると、本で読んだ覚えがあります。そのよき報われの訪れは、現世かもしれないし、霊界においてかもしれないし、あるいは来世においてかもしれませんが、必ず大きな幸運が皆様を待っていることは間違いないと思います。もちろん皆様は、そんな動機で私にメッセージをくださったわけではないとは思いますが。

 ところで、私の体調ですが、残念ながらあまり回復していません。ただ、何となく「薄皮をはぐような」感じではありますが、ほんの少しよくなったような感覚もあります。しかしそれで油断して無理をして神経を使うような活動をすると、とたんにその後、ガクンと体調が悪くなります。インターネットの情報によれば、回復までには3ヶ月から6ヶ月の休養が必要だそうです。いま私はだいたい3ヶ月ほど休んでいることになります。回復までの道のりはまだ長そうです。
 ただ、毎日静かに休んでいるわけではなく、どうしてもやらなければならないことがあります。そのなかで一番やっかいなことは、施設に入った母の実家の売却処分です。母の認知症が進んで「家を売却する」という考えが理解できず、また私が母の実の子供ではないなどの理由で、家の処分のために「成年後見人」というものに私がならなければならなくなり、そのための法的手続きがやっかいで、司法書士のもとに行ったり、家庭裁判所や不動産屋や役所に行ったりしています。膨大な書類をかき込まなければならず、ウツで頭が集中できない私にはキツイものがあります。また、家の中の家財も処分しなければならず、あげくの果ては庭の樹木が伸びすぎて隣の敷地に入り込んだため隣の家から苦情が来て、私ひとりで何本もの枝を切るということもしました。そのときは熱中症になりかけたり、顔と肩の二カ所をスズメバチに刺されたりしました。ただでさえ具合が悪くて横になっていたい状態なのに、これこそまさに「泣きっ面に蜂」です。
 しかも、こんな苦労をして家を売却しても、実はその代金は私のもとに一銭も入ってきません。というのは、私の親は家を担保にして生活保護を受けていたからで、売却代金はすべて市に返却することになっています。要するに、私は一文にもならないことをしているわけです。

 また、穏やかに療養生活ができない理由として、お金の心配があります。先日、国民健康保険の請求書が届きましたが、なんと一ヶ月6万5千円もの金額を、今後一年ほど払い続けなければなりません(役所に私が病気で働けない状態なので減額してもらえないかと頼みに行きましたが無駄でした)。そのうえに税金や年金の支払いもあり、家賃(8万円)の支払いもあります。しかも今年は家賃の更新をしなければならず、毎月の家賃にプラスしてさらに一ヶ月分の家賃と不動産屋の手数料として家賃の3分の1を支払わなければなりません。また、義父が死んで義母が北海道で独り暮らしをしているため、妻が一ヶ月おきにいろいろと世話をするために行かなければならず、そのための交通費もかなりの金額になります。これでは、多少の「傷病手当金」をもらっても、とうていまかないきれず、貯金を崩していくよりありません。しかし豊かな貯金があるわけではないので、このままでは貯金がゼロになるのは、だいたい1年後くらいになります。その頃には傷病手当金ももらえなくなるし、その後どのように生活していくかという不安が脳裏から離れません。今のペースでは、1年後にウツが完全に治る可能性は微妙であるし、仮にウツが治って働けるようになったとしても、前のブログで書いたように、この年齢ではほとんど仕事は見つかりません。
 そのようなことを考えると不安になり、それがウツを悪化させ、ウツが悪化するとますます不安を強く感じるようになるという悪循環になっています。経済的な問題が、なかなかウツが回復しない理由のひとつとなっていることは確かです。
 私は、お金に対して罪悪感のようなものは持っていないと思いますが、漠然として「お金持ち」というと、何かいろいろと贅沢をしている人であるというイメージは持っていました。しかし、私のように質素な生活をしてきて、突然病気で働けなくなるということも人生には起こるわけで、贅沢などしなくても、人間的な生活をするには、やはりある程度「お金持ち」でなければならないのだということを、今更ながら痛感しています。
 ある調査によれば、退職から死ぬまでにかかる生活費は、質素な生活をしても5千万円、ある程度上等な生活(ときどき旅行に行ったり趣味を楽しんだりといった程度の)の場合は1億円が必要だと言われています。
 しかし、そんなお金を持っている人は、いま現在、ほんの一部の富裕層だけでしょう。今の日本の貧困層(年収122万円以下)は6人に1人であり、貯蓄がゼロの人は3割にのぼっており、こうした傾向は年々悪化しているとのことです。
 一流企業に勤めている人以外は、いくらまじめにコツコツ働いても、これからの日本社会は「人間らしい生活」をすることが難しくなっているのです。「お金持ち」にならなければ、死ぬまで人間らしい生活をすることは不可能になっているのです。
 お金がたくさんあれば幸せになれるとは限りませんが、人生の多くの問題はお金で解決できてしまうことも事実です。私もお金が十分にあれば、心穏やかにのんびりとウツの回復だけに専念できるであろうし、そもそもウツにはならなかったかもしれません。
 もっとも、人生の問題をお金で解決してしまう生き方が、霊性向上にとってよいことなのか悪いことなのかは議論の余地があると思います。人間はこの世的な苦しみを通して人間性や霊性を向上させていくものだと思うからです。
 とはいっても、生身の肉体を持ってこの世に生きている以上、お金がないことは本当に辛いです。よほど高い境地に達した人は別でしょうが、お金がなければ心の平安を得ることは難しいといえるでしょう。

 そういうわけで、私は気楽にウツの治療に専念している状態ではなく、外面的にも内面的にも苦しみや不安と闘い、回復までに1年というタイムリミットをつきつけられながら、毎日、回復に向けてがんばっているような状態です。
 なんだか、自分の苦労を自慢しているような感じになってしまいましたが、私と同じような、いえ、私よりもっと深刻な状況にあるウツの人はかなりいると思います。そうして追いつめられて、ついには自殺してしまう人もいるのだと思います。私は自殺という選択肢を選ぶつもりはありませんが、自ら命を断ってしまいたいという気持ちはよくわかります。人生というものはこれほどまでに容赦なく過酷なのかと感じます。

 ただ、病気というのは、治そうと無理にがんばらない方がいいようです。私のウツの苦しみは、過去の悪しきカルマによるものか、それとも生まれてくる前に計画したものなのか、それとも神の試練なのかはわかりませんが、とにかく訪れたことには意味があり、それを素直に受け入れて、病気と闘うようなことはしない、病気という思いをなるべく持たない方がいいようなのです。神がゆるせば、治るものなら治るだろうし、治らなければ、何らかの理由で治らない方がいいのだと思うようにしています。苦しみをすべて神にゆだねるようにしています。
 かといって、治す努力は何もせず、怠惰になることを意味しているわけではありません。「天は自ら助ける者を助ける」という聖書の言葉があるように、私はウツを回復するための情報を、インターネットや本、人からのアドバイスなどからできるかぎり集め、実行できることは実行しています(残念ながらお金がかかることはできませんが)。明るい日に散歩したり、温熱療法やオイルマッサージをしたり、自己暗示療法をしたり、その他、レタスにマヨネーズをかけて食べるといった不思議な治療法もアドバイスをいただいたので実行しています。いくつかのサプリやホメオパシーなども服用しています。ボランティアの霊能者から遠隔治療をしてもらっていますし、神社にも病気平癒の祈願をしてもらいました。とにかくどんなことでも可能性があることは試してみるという方針でいます。
 あとは、「人事を尽くして天命を待つ」という心境でいようと思っています。
 人間という存在が苦しみに対処するには、この姿勢が一番いいのではないかと思っています。
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