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 2015年12月の独想録


12月7日 減薬を決意する
 先日、「胃腸風邪」というものに罹りました。ウイルスや細菌が胃腸に入り込むことで、吐き気、嘔吐、下痢、腹痛に見舞われる症状が現れます。夜、突然ひどい寒気がしたかと思うと、吐き気と何回も繰り返す下痢に見舞われました。嘔吐や腹痛はありませんでしたが、吐き気がひどく、ベッドに横になっていられません。そのため、夜中じゅう、椅子に座っていました。結局、二日間、一睡もできず、何も食べられず、砂糖水をちびちび飲んで耐えていました。ネットで調べると、大人の場合、たいていは二日程度で治ると書いてあり、実際、二日でほとんど治りました。でも、二日間、さすがにきつかったです。
 嘔吐や下痢に見舞われるのは、体内に入った毒を排出しようとするからだの治癒力の働きです。そこで私が迷ったのは、これまで飲み続けていた精神安定剤を飲むかどうかです。あれはある種の毒であるから、もし精神安定剤を飲んで吐き気や下痢がひどくなったらどうしようという恐怖心があり、飲まずに我慢していました。
 しかし、まもなく禁断症状が現れて、吐き気の他に、何ともいえない胸苦しさ、不安パニックのような症状に見舞われました。それがもう耐えきれないほどになったので、おそるおそる、1錠(1mg)を4分の1に割って、それを服用しました。そうしたら、禁断症状がスーッと消えていきました。
 これまでは、いっぺんに1錠とか2錠くらい飲んで、それでもあまり効かないことがあったのですが、このようなからだが敏感になっている状態のときというのは、たった4分の1の小さなかけらでも効くことに驚きました。言い方を変えれば、本当はいかにこの薬の毒性が強いものであるかということの証だと思います。私はこの薬を、多いときで一日に8錠から10錠も服用していました(規定量は一日1.5mg すなわち、1.5錠です)。
 しかし、4分の1錠を飲んで楽になっても、30分もするとまた禁断症状が現れ苦しくなります。私は禁断症状が現れ苦しくなっても、30分は我慢してから飲むことにしました。そうして、禁断症状に対して脳を慣れさせるためです。私は真剣に減薬に取り組まなければならないと痛感しました。薬をやめない限り、うつは治らないと確信しました。
 ネットなどを見ると、急に薬をやめて、その後三日間は地獄の苦しみを味わったといったことが書いてあったりします。しかし急に薬を止めることは危険だと思います。血液中に薬が入った状態に順応してしまった脳が、薬なしの状態に順応するまでには、それ相当の時間がかかります。地獄のような苦しみを味わって脳に負担をかけたり、その体験がトラウマになって、状態を悪化させることも考えられます。なので、薬は急にやめてはならず、長い時間をかけて徐々に減らしていかなければなりません。
 私はとりあえず、1年後を目標に、少しずつ薬を減らしていく計画を立てました。ただし、決めるのは「上限」だけで、無理に飲むことはしないことにしました。そして禁断症状が現れても、30分は我慢することにしました。30分くらいの我慢は何とかできます。
 すると、最初は6錠から二週間おきに半錠ずつ減らしていく計画でしたが、この「30分は我慢する」ようにしたところ、一日3、4錠くらいで平気になりました。それでも規定量の2倍以上を服用していることになりますが、思っていたほど減ったので嬉しく感じます。
 ただ、やはり離脱症状のためか、気分的には以前よりひどく落ち込むようになった気がします。特に朝の落ち込みはどうしようもなくひどいです。
 ところが、それでも何となく、表現は難しいのですが、「調子がいい」感じもするのです。何か、自分の生命力がよみがえっていくような、そんな感じがするのです。
 離脱症状は、「病気の症状」ではありません。からだが本来の健康な状態に戻ろうと闘っている苦しみであり、基本的にはよいことなのです。つまり、「症状は悪化しているが、病状は改善している」ように感じられるのです。
 胃腸風邪になったときは、うつの苦しみの他にこんな苦しみまでやってきて、私はどこまで苦しめられるのかと、思わず神を恨みたくなりましたが、この胃腸風邪がきっかけで、減薬を決意し、改善に向かって方向転換がなされたことは間違いありません。
 そう考えると、胃腸風邪になったことは神の助けなのかもしれず、苦しみが解決のためのきっかけになることがあるとも考えられます。いわゆる「災い転じて福となす」というものですね。これは病気に限らず、人生の苦しみにもいえるのではないかと思います。不運だと思っていたことが、実は幸福へのチャンスだったりするわけです。なので、不運や苦しみが訪れても、あせらず希望をもってしばらくの間じっと心静かに耐えているという姿勢が大切なように思われます。


 12月7日 ウツになってよかったこと
 本文に入る前に、ちょっとひとこと述べさせてください。
 本日、名前も住所も書かれていない読者の方から、あるものが届きました。「ブログには書かないでほしい」というご希望でしたので、詳しくは書けませんが、どうしても御礼の一言を言わないではいられないので、ちょっとだけ触れさせていただきます。
 本当に、本当に、ありがとうございます。お手紙に書かれてあったことは、いつか必ずそうさせていただきます。

 さて、私がかつて病院のカウンセラーをしていた頃、40才のガン患者さんが入院していました。余命は一ヶ月か二ヶ月くらいだったと思います。奥様とまだ小さい二人の子供がいました。親も健在でした。そんな家族を残して死んでいくことを諦めきれず、最初は代替療法をはじめ、いろいろな治療法を探していました。あるとき、病状が急に悪化して意識不明となり、2、3日くらいして目が覚めたのですが、そのとき彼はこう言ったのです。
「人生のうちで、今ほど幸せな時はありません!」
 私は最初、意味がわかりませんでした。まだ40才の若さで、仕事面でも家庭面でもこれからもっとも活躍されるであろうこの歳で、しかも家族を残してもうすぐ死んでしまう状態にあるというのに、「今が一番幸せ」とはどういうことなのか?
 理由を尋ねると、彼はこう答えました。
「今ほど、家族の愛、友人の愛、病院のスタッフの皆さんや、人々の愛を感じたことはなかったからです」
 その後、彼は治療法を探すことはやめて、まもなく安らかに息を引き取りました。
 私は彼の言葉を聞いて、そのときは、頭では「なるほど」と思いました。
 しかし、いま自分がウツ病となり、それに対してこのブログの読者をはじめ、友人や知人などから、たくさんの励ましの言葉をいただくようになりました。なかにはけっこう高価と思われる健康器具のようなものを送ってくださったり、「自分も時間給で働いている身ですが、どうしてもお金に困ったら連絡をください」とまで言ってくれた方、高額な国民健康保険の請求が来て役場に行ってもどうにもならなかったことについて「議員に頼めば何とかなるかもしれませんよ。何だったら私がかけあいましょうか?」といってくださった方・・・、このように、お会いしたことも本名さえも知らない読者の方から、これほど身に余るありがたい言葉を頂戴し、思わず涙が溢れてきました。また、励ましの言葉をくださらなくても、影ながら私の健康を祈ってくださっている方もいらっしゃるかと思います。そのような方にも心から御礼申し上げたいと思います。

 思えば、私のこれまでの55年の人生のなかで、今ほどあたたかい言葉をかけてもらえたこと、あたたかい支援をしてもらえたことはありませんでした。私は言葉では言い尽くせないほど、皆さんには感謝しています。もし私が死んだら、皆さんひとりひとりの守護霊となって恩返しがしたいとさえ思っています。
 私はこのような経験をこの地上人生において経験できたことを、とても幸運なことだと思っています。これもいわばウツのおかげであると言えるかと思います。私は今になって、あの男性患者さんの言葉が、頭ではなく、心というか、もっと深いレベルで理解できたように思います。人生で本当に大切なことは、病気が治るとか、お金持ちになるとか(もちろんそういうことも大切ではありますが)、もっと大切なことは「愛を知ること」ではないかと思うのです。
 私はこれまで数え切れないほど「神様、助けてください」と祈りましたが、いっこうに苦しみから解放されることがないので、神に対して不信感を抱くようになっていました。しかし、神の目から見れば、ウツが治ることが「救い」なのではなく、こうして人々のあたたかい心、愛を体験することこそが、本当の意味で「救い」ではないのかと思えるようになりました。人生において、愛し愛される体験をすることこそが、人間にとっての真の救いであり、幸福ではないのかと思うのです。

 実は、私は神に対する不信だけでなく、人間に対する不信にも陥りそうになっていました。表の顔と裏の顔の違い、偽善性といったことも目にし、人間というものに対して失望の気持ちが強くなっていきました。そういうことで、私のウツが重くなっていったひとつの原因となったことは確かだと思います。
 しかし、すばらしい人にも出会いました。その中のひとりは、まだ若く、謙虚でおとなしく目立たない感じの人でしたが、私はその人が秘めている霊性の高さをうすうす感じていました。私の推測は正しく、私が会社を辞めるときにウツに効く代替医療の薬と励ましの言葉をもらいました。そうしたあたたかい言葉をかけてくれたのは彼一人だけでした。また、会社を辞めてからも、私を心配して励ましの電話をくれました。こういう人こそが、本当に霊性が高い人だと私は思うのです。

 私のこれまでの人生を振り返るとき、一般の人と比べると、けっこう極端な体験をしてきたなと思います。あるときは「先生」などと呼ばれてVIPのように扱われたかと思うと、あるときは人を人とも思わないようなひどい状況のなかに身をおいて過酷で屈辱的な扱いを受けたことも数多くあります。尊敬に値するすばらしい人や、いわゆるセレブという方々と交流させていただいたかと思うと、(こういう言い方をしては何ですが)人間として最低最悪の腐りきった人と一緒に「同じ釜の飯」を食べたこともありました。聖者のような献身的で謙虚な人に会ったかと思うと、ドラマにでも出てくるような「金の亡者」にも会ったりしました。大企業から数億円をだました「一流の詐欺師」にも会ったことがあります。また、世の中から尊敬されている人の「裏の顔」を見て失望したことも少なからずあります。
 こうしたことは、非常に不愉快で辛いときもありましたが、今振り返れば、どれも貴重な「すばらしい」体験であったと思っています。たぶん、そういう極端な経験をするように、私の魂が計画していたのか、あるいは神様が経験させてくれたのだと思っています。
 今は、私にひどいことをした人を恨んではいません。まあ、思い出すと正直少し腹が立つ思いはしますが、恨んではいません。私も人を不愉快にさせたり傷つけたりしたこともあったと思いますので、そうしたことはお互いさまということで、許すことが大切だと思っています。地上世界には完全な人などいないのですから。しかし今回ウツになったことで、私は神と人間不信から解放されました。これも皆様のおかげです。
 霊性が高いか低いかは、すぐにわかります。どれほどスピリチュアルな知識があるとか、霊能力があるとかは関係ありません。真に霊性が高い人というのは、その愛と謙虚さがどれだけあるかで決まります。なぜなら、霊性とは結局は「愛」であり、愛があれば自然に謙虚になるからです。こういう人は、特別な使命を持った人は別として、たいていは目立ちません。なので、「人を押しのけてまで自分の利益を考える」人ほど成功しやすい今の社会構造では、いわゆる「平凡」な人が多いのです。ときには社会的に虐げられていたりします。「自分は霊性が高い」と思っているような人は、逆に霊性が低いと思って間違いありません。霊性が高い人は、自分を偉いとも、偉くないとも思っていないでしょう。偉いとか、偉くないとか、そういう比較や差別の意識を超えているからです。

 最後に、今現在の私のウツの状態ですが、全体としては本当に「薄皮を剥ぐような」感じではありますが、少しづつよくなっているような気がします。本などもだんだん長く集中して読めるようになってきました。しかし、無理がきかず、少し無理するとたちまち状態が悪化します。比較的夕方から夜は調子がいいのですが、朝から昼過ぎまでの気分は最悪で、ウツという病気の怖ろしさを身に染みて感じます。拷問のようです。医者からは、遠回しな言い方でしたが、私のウツは治らないと言われました。
 しかし、たとえ完治はしなくても、ウツで苦しみながらであっても、いつか社会に貢献できるような活動、世の中を少しでもよくしたり、人々に喜んでもらえるような活動がしたいと思っています。そうすることが、皆さんのあたたかいご支援に対する恩返しであると思っています。今は休ませていただいておりますが、将来はそうしたいという強い願望があります。
 もちろん、どうなるかはわかりません。すべて神様にゆだねたいと思います。万が一、そんな活動ができずに私の人生が終わってしまったら、そのときはどうかゆるしてください。
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