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 2015年5月の独想録


 月19日 人生の悲しみ
 ウツという病気は不思議なもので、朝は「死にたい」と思うほど辛いが、夕方から夜にかけては楽になる。そのときは、朝に「死にたい」などと、なぜそんなことを考えたのか、自分でも不思議に感じる。世の中にはもっと辛い思いで生きている人がたくさんいるというのに。
 ところが、また朝になると、とてつもなく深い悲しみ、孤独、絶望感のうちに目が覚めて「死にたい」と思う。このときは、人生や世のなかをそのように悲観的に見ることが非常にまっとうなように思えてしまう。何を見ても悲しく、無意味で、絶望的で、空虚で、しばしば馬鹿らしく感じてしまう。すべてが灰色、暗黒に見える。勤め帰りに酒場で馬鹿騒ぎしている人などを見ると、いくら本人が楽しくても、そういう生き方をしていること自体が悲しく、虚しく思えてしまう。また、いわゆる世間がうらやむような社会的な地位の高い医者や弁護士といった職業の人たちを見ても、いったいそれがどうしたのかと意味なく感じてしまう。さらには、マザーテレサのように愛の奉仕に生きた人でさえ、この広い宇宙に比べれば、ちっぽけなものに感じられる。世間やマスコミは偉大な業績としてたたえるが、いっこうに餓えや苦しみに見舞われる人は減っていない。ウツの気持ちのときは、こんな思いで頭がいっぱいになり、胸のあたりが苦しくてどうしようもなくなる。

 朝起きたときに感じる悲しみというのは、とてもとても深い。悲しみというものが、これほど深いものだということに、ウツになって初めて気が付いた。このような体験は、通常の人なら、たとえば愛する人を突如として失ったとか(最愛の子供を失うなど)といったことがなければ味わうことはないものだと思うが、ウツになると、そういう経験を実際にしなくても同じような、場合によってはもっと深い悲しみ、絶望、虚しさ、不安に見舞われる。その辛さは拷問に等しい。
 以前にも同じようなことを書いたが、こうしたウツのときの世界認識は、正しいのだろうか? それともウツという病気が作りだす、ある種の幻想なのだろうか? 人生というものは、本当はもっと希望と明るさに満ちた幸せな場所ではないだろうか?
 だが、少し前にテレビで、小学生が横断歩道を横断中、そこに大型トラックが横転して下敷きになって死んでしまったというニュースを見た。助け出したときには、上半身はつぶされていてほぼ即死状態だったという。
 こんなニュースを見るたびに、私は思う。これほど残酷なことが実際に起こっているということは、この世の本質というのは、やはり残酷にできているのではないのだろうかと。いったい小学生は何のために死ななくてはならなかったのだろうか? そんなに若くして死んで、そこに何の意味があったというのだろう。スピリチュアルな教えでは、「それは親の試練だ。そのきっかけを通して、たとえば交通安全の活動をするなどに目覚め、社会貢献をするためだ」などと解釈をしたりする。確かに、実際にそのような活動をする人もいる。しかし統計的に調べたらどうなるのだろうか? 私はおそらく、社会的に有意義な活動だとか、その不幸によって人間的な成長を遂げるといった意味あることもなく、大部分の人は悲しみに打ちひしがれ、さらには世の中を呪い、人生を呪い、神を呪い(あるいは神など信じることもなくなり)、人間として成長することもなく、残りの人生を絶望と悲しみのなかで生きていく人の方が多いのではないかと思う。最悪の場合、そんな辛さに耐えかねて自殺したり、家庭崩壊したり、ストレスから悪い病気になって死んでしまう。

 薬の減量の方は、医者から処方されている一日の規定量(といっても一般にはオーバードースの量であるが)の6粒から5粒にまで減らしてはきたが、ストレスのある環境に身を置いているため、どうしてもそれ以上減らすことはできないでいる。仕事をやめて何の心配も煩わしいこともなくゆっくり休養できれば薬を減らして止めることもできるかもしれないが、もともとウツの原因のひとつでもある仕事面でのストレスがある限り、やはりまったく止めるのは至難の技であるようだ。このようなものに頼って生きているのは決してまともではないし、長期的にはどのようなよくない影響が出てくるとも限らないが、根本的な問題が解決しない限り、いわばもともと薬を飲むきっかけとなった状況が変わらない限り、薬を止めるというのは非常に難しいことを、つくづく身に染みて感じている。

 私は「理想的なもの」から裏切られ、見捨てられるという人生を生きてきたように思う。子供のときは、3人の母親や祖母から育児放棄されて見捨てられた。若いときは、宗教団体やその教祖たちの裏の醜い面を見て、(若かった純粋な理想への憧れが裏切られて)、ある意味で見捨てられた。
 それでもまだ神に対する信仰はあった。
 しかし、ウツのときに感じる深い深い悲しみ(悲しみがここまで深いと涙さえもでない)と、世の中の現実を見せつけられてきた今は、この神に対する信仰さえ揺らぎだしている。たとえ人生そのものは悲惨で辛くても、神がそれを救ってくれるという思い、希望が、心のどこかにあった。
 しかし、それも消えようとしている。東日本大震災で亡くなった2万人ほどの人たちの多くは、死ぬ前に「神様、助けてください」と祈ったに違いない。だが、神はそれに応えてくれなかった。
 もちろん、結果があるということは原因がある。つまり、この世界が存在するということは、その原因である創造主が存在する。これは確かであろう。その創造主を神と呼ぶなら、神は確かに存在するといえるだろう。
 だが、それは私たち人間が期待するような神ではない。それは私たちからあまりにも高くて遠い存在なので、私たちがいかに苦しもうと殺されようと、おそらく眼中にはないのだと思う。まるでありんこが踏んづけられて死んでしまうくらいの感覚しかないのかもしれない。
 ただ、いわゆる守護霊だとかそういう霊的な存在はいるようで、常に私たちのことを助けてくれようとしているようだ。しかし、彼らは万能ではない。だから、この人生で残酷なことが平気で起こるのだろう。守護霊の根源が創造主である神とつながっているとすれば(おそらくそうだと思うが)、神は存在し、守護霊や、ときには人間を通して私たちを助けようとしているのだと、そのように言うこともできるかもしれない。
 しかし残念なことに、それは確かなことではない。いくら神に祈っても、救われないときは救われない。苦しまなければならないときは、苦しまなければならない。それが人生なのだ。

 ウツになることは、人生におけるもっともやっかいな出来事だと思う。なぜなら、ウツになるとすべての生きる意欲が失われてしまうからだ。まるでゾンビと同じようになる。そこに希望はない。人生にいかなる困難が訪れても、希望と意欲さえあれば、何とか乗り越えていけるものである。しかし、それを奪ってしまうウツは、まさに人を絶望に陥れるには十分な力をもっている。

 しかし、逆説的であるが、普通の人ではまず味わうことがない、とてつもない深い悲しみを味わうことができたことは、ある意味で幸せであると思っている。私は真実を見た。少なくとも、真実の一側面を見た。
 私は、高校生を過ぎてから今まで、心の底から笑ったことがない。「生きていることは楽しい」と思ったことはない。それは私自身のこれまでの人生が、どちらかといえば苦闘の連続であったということと関係しているのかもしれないが、それだけではないとも思う。
 人生というものは、そもそも悲しいのだ。ほとんどの人はそれに気づかずに生きている。もっとも、「知らぬが仏」で、それは必ずしも悪いことではない。へたに人生の悲しみの本質を知ることは、人生から光を奪ってしまう。
 だが、子供のときから偽善やごまかしが嫌いだった私にとって、悲しみという、この人生の真実を見せてくれたことは、もしかしたら神の恩恵だったのかもしれないとも思ったりする。