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 2017年10月の独想録



10月27日 生まれ変わりは本当にあるのか?
 
仏教や、ほとんどのスピリチュアルの教えでは、人間は何回も生まれ変わっているとされています。いわゆる輪廻転生です。イメージとしては、魂が、霊界と地上との間を何回も往復しているといった感じでしょうか。
 こうした生まれ変わりというのは、本当にあるのでしょうか?
 これに関する回答は、すでに出ています。つまり、前回まで魂が実在するかどうか考察してきて、その結果、魂は実在しない可能性が高いと考えられたので、魂というものがなければ、当然、生まれ変わりも存在しないことになるからです。

 ところが、「前世を記憶する子供たち」といった論文があり、それを見ると、確かに生まれ変わりは存在するのではないかと思われることがあります。
 たとえば、あるとき子供が「自分はどこそこの村の、何とかという親の子供だった」と突然言い出すのです。その村は遠くにあり、今までその子供は行ったことがありません。しかしあまりにもしつこく言うので、親が子供をその村に連れていくと、まるで知っているかのように迷うことなく歩いていき、目的とする家を見つけて、出てきた人を「お父さん、お母さん」と呼んだという話です。そして実際、その家では、その子供が生まれた直前に、子供が死んでいたことがわかったのです。しかもおまけに、その子供は頭の怪我が原因で死んだのですが、尋ねてきた子供の頭にも、生まれながらに傷があったといった具合です。
 イアン・スティーブンソンという学者は、こうした事例を数多く報告しています。
 さらにまた、今まで決して知りえたことのない外国語を話すという現象も報告されています。たいていの場合は、幼い頃に、たとえば母親が外国語を習っていて、それをそばで何気なく耳にして潜在意識に記憶されており、そのことをすっかり忘れていただけというのが多いようです。それが、たまたま潜在意識が開かれたとき、今まで自分が知らない(と思っていた)外国語を話すというわけです。そういう事情を知らないと、あたかも前世の記憶がよみがえったためであると思って、生まれ変わりの証拠だとしてしまうわけです。
 しかし、ごく稀に、実際にまったく知らない外国語を話すというケースもあるようです。だとすると、スティーブンソンの事例と合わせて、生まれ変わりが存在するとしか結論できない、確かな証明になるように思われます。
 しかし、それでも、必ずしもそうとはいえないのです。

 かつて1970年代、旧ソ連は軍事目的や教育目的で、超能力の研究を膨大な予算を使って行っていました。
 そのなかで、ウラディミール・ライコフ博士は、「人工転生」という研究を行っていました。これは、「あなたは過去の偉大な人物の生まれ変わりである」という暗示をかけると、その偉大な人物の性格や知識や技能が発揮されてくるという研究です。
 たとえば、有名な画家ラファエルの生まれ変わりだと暗示を受けた女学生の場合、あなたは誰ですか?と質問すると、「私はラファエルです」と答え、「今は何年ですか?」と尋ねると「もちろん1505年です」などと答えるのです。そして、彼女は絵の訓練を今まで受けていなかったのですが、この催眠術を繰り返すたびに、プロ並みの絵の才能を発揮したのでした。
 これはもちろん、ラファエルの魂が生まれ変わったわけではありません。後天的にかけられた催眠術によって、このようになったからです。
 ここからわかることは、ラファエルに関する情報がこの宇宙のどこかに記録されており、催眠術によって特殊な意識状態(変性意識)になると、その情報にアクセスすることができ、その情報をダウンロードすることができるのではないかということです。
 そうだとすると、必ずしも生まれ変わりであると結論できないことになります。

 たとえば、スティーブンソンが調査した生まれ変わりの実例の場合も、その子供が、過去の子供の情報と何らかの原因でアクセスし、その結果、過去の子供の情報が入り込んで、あたかも生まれ変わりであるかのようになるのではないかと思われるわけです。
 また、今まで習ったことがない外国語を話せるようになるというのも、その外国語の情報とアクセスしてダウンロードしたために、その外国語が話せるようになったのではないかと、このような推測も成り立ちます。
 ですから、こうした、一見すると生まれ変わりのように思われる現象があったとしても、それをすぐに生まれ変わりだと結論づけることはできないのです。

 なお、生まれながらに傷があったという現象ですが、これも暗示として説明がつきます。たとえば、催眠術をかけて、えんぴつを火箸だといって腕に当てると、やがてその部分に火ぶくれができることが知られています。思い込みの力が肉体に変化をもたらすのです。
 さきにあげた子供の場合も、頭を怪我したという情報が強かったために、それがある種の暗示となって、すでに胎児の段階で、傷を形成させてしまったのではないかと推測できます。過去に怪我をした人の情報にアクセスすると、その情報がある種の暗示作用として働き、そのために、同じ部分に傷痕がつくのではないかと思われるのです。

 霊能者が人の前世を霊視するというのも、おそらく、死んだ過去の人物の情報にアクセスし、その情報を、あたかも目の前の人間の前世であると勘違いしている可能性があるわけです。

 もちろん、真実はわかりません。本当に生まれ変わりはあるのかもしれませんが、ここで申し上げたいことは、決して生まれ変わりは実証されたわけではなく、存在しない可能性も十分にあるということです。
 生まれ変わりはあるのだと決めつけるのも間違いであり、生まれ変わりはないのだと決めつけるのも間違いだということです。
 それらはいずれも、ある種の偏見です。偏見がある限り、真実への道は閉ざされてしまいます。なぜなら、その偏見が真実であると思い込んでいるわけですから、本当の真実に出会ったとき、「これは真実ではない」といって、真実を否定してしまうことになるからです。
 真実というものは、「わからない」と考えている人のところにこそ訪れるものと、私は考えています。
 私がここ最近、宗教やスピリチュアルを信奉している人の気持ちに水を差すようなことを書いているのも、そのためです。本当の宗教やスピリチュアルであれば、偏見ではなく真実をめざすはずです。ならば、宗教やスピリチュアルで説かれていることを信じてはいけないのです。「信じる者は救われる」などと言われていますが、実は「信じない者は救われる」なのです。
 なぜなら、人は真実によってのみ救われるからです。



 10月14日 魂は実在するのか?(5)
 
霊界では「ある人に会いたいと思った瞬間に、目の前にその人が現れる」という現象があるといわれています。
 しかし、これは奇妙なことです。たとえば、ある人に会いたいと思ったその瞬間に、その人は別の人と会っていたかもしれません。すると、その場から連れ去られるように姿を消して、会いたいと思ったその人のもとに現れるのでしょうか? もし同時に複数の人から「会いたい」と思われた場合は、どうなってしまうのでしょうか?
 すると「いや、霊界という場所は、一人の人間が同時にいくつもの場所に姿を現すことができるのだ」と言うかもしれません。まるで分身の術を使っているかのようです。
 これは、もっともらしい説明に聞こえますが、実体とかけ離れています。
 たとえば、もし同時に、あなたが百人の人と話をしたとします。あなたは、同時にその百人の人の話を理解し、考え、適切な言葉を口にすることができるでしょうか?
 そのようなことはとてもできませんし、想像もつきません。そうなったら、果たして個人というものの統一性というものがなくなってしまいます。個人の統一性とは、誰かと話をしているときは、その人の話だけに意識が向けられているということです。そして、ひとつの思考や感情だけがあるということです。意識の焦点が一点に向けられているからこそ、個としての存在が成り立つわけです。もし同時にたくさんの人に意識を向け、さまざまな思考や感情が同時進行したら、いったいどれが本当の自分の思考や感情として認識するというのでしょうか。その人の意識の本体というものがどこにあることになるのでしょうか?
 結局、「会いたいと思ったらその人が目の前に現れる」という現象は、その人が作り出した幻影ではないでしょうか。そう考えた方が自然です。
 霊能者など、死者を呼び出して、その人と会話をするというのも、同じことでしょう。霊能者が勝手にその死者の幻想を作り出しているのです。しかし、すでに述べたように、脳内の量子もつれ現象により、その死者が残した記録にアクセスできますので、誰も知らないはずの情報を口にしたりするわけです。たとえば、会ったこともないその死者の姿形などを言い当てたりするわけです。
 そういうカラクリを知らない一般の人は、ズバリその事実を言い当てたのを知って驚き、本当にその死者の魂が現れたのだと信じてしまうのですが、そうではない可能性があるわけです。
 以上のように考えると、同時に複数の場所に存在するとされる「魂」なるものは、果たして存在するのかどうか、あやしく思われてくるのです。


 10月7日 魂は実在するのか?(4)
 
魂が存在しないとすると、たとえば幽体離脱して、地上世界や霊界を見聞したということは、どのように解釈したらいいのでしょうか。
 それは、脳が作り出した幻想なのでしょうか?
 ある医師は、自らの臨死体験によって、それは脳の作り出した幻想ではなく、魂や霊界は実際に存在するのだと確信を得たといいます。
 というのは、自分が臨死体験をしている間、大脳の前頭葉の機能が停止していたからだというのが、その根拠です。ご存知のように、前頭葉は私たちの思考を司る部位ですから、この部分が機能停止していたら、臨死体験のようなビジョンを見ることはできません。その体験を認識したり、何かを考えたりすることはできません。

 
そうなると、確かに臨死体験は脳が作り出した単なる幻想とは言えなくなります。
 神経細胞によって脳が働くときは、そこに電流が流れますから、脳波を測定すれば、機能しているかどうかわかります。脳波が感知されなければ、神経細胞に電流が流れていないことになり、機能停止と見なされます。
 しかし、だからといって、脳が機能していないことにはならないのです。
 というのは、すでに紹介した「量子もつれ」によって、脳細胞どうしが情報を直接にやりとりしている可能性があるからです。量子もつれによる脳の活動には電流が流れていないので、脳波で測定はできないはずです。つまり、脳は機能停止しているように見えます。しかし実際には、機能している可能性があるわけです。
 したがって、臨死体験中であっても、脳の前頭葉は活動していたかもしれません。そうなると、臨死体験は、やはり脳が作り出した幻想である可能性が否定できなくなるのです。
 しかも、脳内の量子もつれは、いわゆるESPやサイコメトリーの働きと関係あることも紹介しました。臨死体験中に、超感覚的な能力を発揮する理由も、これで説明がつきます。つまり、臨死体験中に、脳内の量子もつれによって脳が機能していたために、さまざまな幻想と共に、それが客観的な事実と一致するという事象も生じるわけです。そのために、魂が浮遊して部屋の様子や遠く離れた場所の様子を目撃したり、その内容が事実と一致したりするわけです。また、まったく学んだ覚えがない言語を話すといった現象も、その言語情報にアクセスできれば可能となるはずです。

 
そもそも、仮に、脳とは独立して思考作用を司っている魂なるものが存在した場合、なぜ脳に思考機能が備わっているのかという疑問が生じてきます。魂が思考できるのであれば、思考機能を司る前頭葉は必要ないことになります。
 また、魂の状態で体験したことを記憶しているということになりますから、記憶を司る扁桃体も必要がないはずです。体験したことを、魂が記憶すればいいからです。
 なのになぜ、脳などというものがあるのでしょうか?
 自然というものは、必要がないものは生み出さないはずです。脳がなくても思考したり記憶できたりするのであれば、脳という器官は生物に備わっていないと考えた方が合理的です。むしろ、邪魔になるだけでしょう。

 
このように考えても、脳とは別に、思考する魂のようなものが存在するとは考えにくくなるのです。
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