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 2017年4月の独想録


 4月15日 神は存在するか?
 東日本大震災が起こったとき、原発事故による放射能が私の住む関東地方にも微量ながら流れてきました。そのとき、地震が起こる直前に関東地方から九州に引っ越した知人がいて、その知人から次のようなメールを受け取りました。
「危ないところで助かりました。神様って本当にいるんですね」
 それを見て、神が存在するかどうかという考えは、個人の狭い主観に基づいているのだなあと感じました。彼は、彼の言う神のおかげで助かったのでしょうが、関東地方に住む私は、ましてや東北に住んで被災された方たちにとっては、神は存在しないことになります。
 神はいると信じる人もいれば、いないと信じる人もいます。神を信じている人は、人生が恵まれていたり、あるいは苦難に遭遇したときに助かったといった経験を持っているのでしょう。そのために、「人間を苦しみから助けてくれる神は存在する」という信念を持ったのだと思います。
 しかし、それはあくまでも自分だけの限られた経験での尺度から導かれたものに過ぎません。本当にこの世に神が存在するかどうかは、世界中の人々を広く見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な境遇に見舞われている人を尺度として考えなければならないと思うのです。なぜなら、そのような悲惨な出来事は現実に起こっていることであり、そのような悲惨さは、誰もが経験することになってもおかしくないからです。いくら神に祈っても苦しみから救われない人だっているわけです。震災で亡くなった人たちは、「神様、助けてください」と祈らなかったのでしょうか? そうは思えません。おそらく、たくさんの人がそう祈ったと思います。けれども、助かりませんでした。それが現実なのです。私たちは現実という尺度から神は存在するかどうかを考えていかなければならないのです。
 冒頭で紹介した知人は、もし九州に転居せず、それどころか東北地方に転居して家族全員を失うという悲惨な経験をしたとしたら、どうでしょうか。果たしてそれでも「神は存在する」という考えを持ち得たでしょうか?
 このように、神は存在するかどうかについては、個人の狭い経験からではなく、広く世界を見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な人の体験を尺度にして結論づけなければならないと思うのです。

 私は、先日シリアで起こった化学兵器の攻撃によって、たくさんの子供たちが残酷な苦しみの中で殺されていった事実などを見るにつれ、「ああ、この世に神はいないのだな」と感じます。
 正確に言うと、「私たちが期待するような神」はいないのだと思うわけです。
 すなわち、私たちが「神」というとき、それは私たちを苦しみから救ってくれるような存在をイメージしています。その証拠に、神社仏閣にはたくさんの人がいろいろなお願い事をしに参詣しています。それで願いが叶えば神は存在すると信じるでしょうが、実際には願いが叶えられるとは限りません。受験に合格しますようにと祈っても落第することがあります。受験くらいならともかく、人生の壮絶な苦しみにある人が、最後の希望として神に救いを求めて祈るような場合であっても、その願いが叶えられるとは限りません。
 そのような意味で、私は「私たちが期待するような神」は存在しないとしか考えられないのです。世界のあまりにひどい残酷で悲惨な状態が、かくも頻繁に起こり、何の罪もない子供たちが苦しみ悶えて死んでいくのを見て、神はなぜ私たちを救ってくださらないのでしょうか?

 では、どのような神であるかはともかく、神というものは存在するのでしょうか?
 たとえば、いわゆる因果関係というものが普遍的な真理であるとするなら、つまり、原因があって結果があるという道理が真理であるとするなら、「この世界」というものが存在しているという「結果」があるわけですから、その「結果」をもたらした「原因」があるはずです。要するに、この世界の創造主が存在すると考えられます。その創造主を「神」と定義するなら、神は確かに存在すると考えられます。
 しかし、その神は、キリスト教が言うような「愛」でもなければ、人格的なものではないと思われます。なぜなら、世界を創造したくらいの絶大な力を持っているわけですから、その気なら人を苦しみから救おうと思えば簡単にできるはずだからです。しかし、それをしないということは、「愛」ではあるとは思えません。なかには、「そのような苦しみを与えることも、最終的にはその人を真の幸せに導こうとする意図があるので、それも愛の現れなのだ」と考える人もいます。しかしそうだとすれば、この地上で起こるどんな悲惨なことも「愛」になってしまいます。変質者に我が子を殺されてしまうのも、爆弾で子供が肉片となって散らばってしまうのも、すべてが「愛の現れ」になってしまいます。私たちはそんなことまで「愛」だと認めることができるでしょうか? 明らかに、そんなことまで「愛」と呼ぶのには、無理があります。そうなると、もうなんでもありになってしまい、愛と愛でないものとの区別がなくなってしまいます。
 創造主である神とは、ある種の法則のようなものであり、私たち人間が苦しもうと意に介さないのです。広大な宇宙に比べれば、地球など破滅しても、たいしたことではないのです。
 しかし、人間は弱いもので、人生の苦しみを乗り越えていくには、支えを求めます。そのために「苦しみから救ってくれる神」だとか「仏」だとか「菩薩」といったものを勝手に作り出してきたのです。そうして一生懸命に信仰に励むのですが、そうしたものは、期待から作られた幻想に過ぎません。つまり、宗教と呼ばれるものは、幻想によって成り立っているのです。神も宗教も幻想の産物なのです。

 神は愛ではありません。人格を持たないからです。
 しかし、もし「神は愛ではないが、愛は神である」と言う人がいたら、私はそれに賛成です。
 神が愛なのではなく、愛こそが神なのです。神というのは、実は愛のことなのです。
 神というとき、自分の信じる宗教に汚染されたさまざまなイメージが伴います。そして、自分の宗教で説かれている神こそ真実で、他の神は偽物だ」などと主張して争っているわけです。愚かなことです。神は無形であり、私たちのイメージをはるかに超えた存在です。神に関するわずかなイメージ、印象、考え、定義といったものを持ってはならないのです。それらは人間が勝手に創り出した虚像にすぎないからです。「神」という言葉を使うことそれ自体が、そもそも間違っているのです。神は名前をつけられるような存在でさえありません。
 しかし、「愛」には、「神」ほど特定のイメージに汚染されていません。個人によって多少のイメージは付随していますが、かなり普遍的なものです。「自分たちの愛こそ本物で、それ以外の愛は偽物だ」などと争ったりはしません。
 そして、私たちを救ってくれるものは、こうした「愛」なのです。
 もちろん、愛があればすべて救われるとは限りません。しかし、愛があるときは、おおいなる救いが得られることは確かです。全世界の人が愛を表せば、化学兵器で子供たちが死んでいくなどということは起こらないのです。天災ばかりはどうしようもありませんが、それでも被災した人をすみやかに救うことはできます。
 神に助けを祈ることは無意味です。せいぜい一時的な慰めになったり、苦しい気持ちを麻痺させる効果があるだけで、いわば麻薬や精神安定剤と本質的には同じものです。助けを求めても助かるとは限らないのが現実だからです。私たちは現実をしっかりと見つめなければなりません。
 おそらく、あと数百年後か、あるいは数千年後になるかもしれませんが、人類はいつか宗教という幻想から目覚め、地上に宗教というものが消えてなくなると思います。そして、その宗教に代わるのが「愛」です。
 私たちは、「神様、助けてください」と祈ることはやめ、「愛に目覚めることができますように」と祈るでしょう。「愛が地上に現れますように」と祈ると思います。
 そうして、愛が地上に顕現されたとき、私たちは真に神を見出すのです。しかし、そのときには誰もそれを「神」とは呼ばないと思います。神と呼んだ瞬間に、神ではなくなってしまうからです。


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