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 2017年7月の独想録


 7月18日 追悼 日野原重明先生
 本日、聖路加国際病院の現役医師として活躍してこられた日野原重明先生が、105歳でお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。
 日野原先生には、私の本『ブーバーに学ぶ』(日本教文社)の帯に推薦文を書いていただいたご縁で、一度お会いしたことがあります。
 推薦文を誰か有名人に頼む場合、普通は著者か出版社にコネがないと、なかなか難しいとされています。いきなり頼んでも無視されるか断られるかされることが多いようです。
 しかし私は、日野原先生がブーバーを尊敬されており、ときどき著書や講演などでブーバーに言及されておられたのを知っていたので、日本では知名度の低いこの偉大な哲学者を知っていただくには、日野原先生ほどの適任者はいないと思い、ダメでもともと、日野原先生に手紙を書きました。
 すると、すぐに、先生から快諾のご返事をいただいたのです。私も編集者もびっくりしました。私など、どこの馬の骨かわからないもの書きに過ぎず、日野原先生ほどの名声と知名度のある人から相手にされるような存在ではないのですが、先生はそのようなことにこだわらず、推薦文を書いてくださったのです(ちなみに、その推薦文に対して出版社が支払った報酬はたったの5万円でした。もちろん、先生はお金だとか、そういうことのために推薦文を書いてくださろうとしたわけではなく、尊敬するブーバーの本ということで書いてくださったのですが)。
 そこでさっそく、本のゲラを先生にお送りして推薦文を頼みました。
 普通、そのようにして有名人に推薦文を頼んでも、いつまでもダラダラと待たされることが多いようなのですが、日野原先生は、すぐに推薦文を書いて送ってくださったのです。これにはまたびっくりしました。
 そして、まもなくして、何と、私の携帯電話に、日野原先生から電話があったのです。そして次のようにおっしゃってくださったのです。
 「このたびはすばらしい本を執筆してくださり、ありがとうございました」
 私はびっくりするやら、恐縮するやら、有り難いやらで、胸がいっぱいになりました。何ていう細かい気遣いのある、そして謙虚な方なのかと思いました。
 私は今まで、何人かの一流の人と会ったことがあります。
 彼らのほとんどは例外なく、謙虚でした。謙虚というか、自然体なのです。偉ぶることもなく、虚栄といったものがありません。一方、そこそこ成功して有名な人という人は、けっこう傲慢な人が多いです。二流は傲慢、一流は謙虚です。中途半端な人は傲慢、本物は謙虚と言ってもいいでしょう。これは、おそらく真理です。
 そして、本ができたので、お礼と本を贈呈するために、編集者と一緒に聖路加国際病院の日野原先生の部屋に伺いました。机の上には、執筆中と思われる原稿やら資料などがたくさん置かれていました。
 先生は、私たちを快く迎えてくださいましたが、そのときも先生は自然体でした。すなわち、客をもてなすような過剰な慇懃さはなく、かといって、そっけなく対応するというのでもなく、まるでむかしから知っている間柄のような感じで、素朴な感じで迎えてくださったのです。
 そして、先生に本を差し上げました。こういう場合、たいてい社交儀礼的に(リップサービス的に)本を褒めてくれて、それでおしまいということが多いのですが、日野原先生は違っていました。「どうしたらこの本がたくさん売れるだろうね」と言って、その具体的な方法を提案してくださったのです。そうして、もっと表紙はこうした方がいいのではないか、といったアドバイスをしてくださいました。
 さらには「私が代表を務める学会の雑誌にこの本を推薦図書として紹介しておきます」と言ってくださいました。そしてその通り、後日、その学会の雑誌に私の本が推薦図書として掲載されました。またしてもびっくりです。
 日野原先生は、単なる口先だけではなく、本当にその人に必要な援助とは何かを考え、そうして親身になってアドバイスしてくださる方なのだと思い、今までそのような人は知らなかったので、びっくりしました。
 こういう感じで、日野原先生にはたくさんびっくりさせられましたが、その人間的な温かさ、誠実さ、そして実践的な知性には、深い感銘を受けました。

 日野原先生ご自身はキリスト教徒だったようですが、ユダヤ教の哲学者ブーバーを敬愛しておられました。普通は、いくら偉人であっても異教徒を尊敬するというのは抵抗があると思うのですが、日野原先生にはそのようなこだわりがなかったようです。しかしだからこそ、先生は真の宗教者でもあったのだと、私は思っています。
 先生は「人生に余生はない。死ぬまで現役だ」とおっしゃっておられました。そして、「自分は生かされているのだ。その生かされている命を、今度は恩返しとして人のために役立てたい」とおっしゃっていました。その言葉通り、生涯、現役で人々のために尽くされました。医師として、キリスト教徒(宗教者)として、そして何よりも人間として、私たちにお手本を示してくださいました。

 以上、私が経験した日野原先生のエピソードをご紹介させていただきました。
 私は、わずかな時間でしたが、日野原先生とお会いできたことを、大変な幸運であると思っています。なぜなら、数千万の本を読むよりも、たった一人のお手本となる人物と出会う方が、はるかにすばらしい影響を与えてくれるからです。
 私も日野原先生を見習って、人々のお手本となれるような人間になりたいと思いました。



 7月14日 独想録の内容の変化と今後の展開について
 少し長い記事になりますが、重要なことなのでご容赦ください。
 私は特定の宗教や教えの信奉者ではなく、探求者であり求道者ですから、新たな発見や思索の進展があれば、考え方や主張にも変化が生じてきます。そのために、過去の記事と内容が変化してきています。
 皆様には、ぜひ最新の記事(考え方)に注目していただきたいと思います。それが今の私の考えだからです。もちろん、将来、また別の違う考え方に変わって、今の考え方を否定することもあるかもしれません。あるいは「やはり最初に書いた記事の方が正しかった」となって、むかしの考え方に戻る可能性もないとは言えません(したがって、むかしの記事も削除しないで残すことにします)。
 しかし基本的には、少しずつ本質的なものに近づいているのではないかと思いますので、最近の記事に注目していただきたいと思うのです。

 では、過去に書いた記事と、最新の考え方とでは、どのように異なってきたのか、簡単に紹介してみたいと思います。詳しいことは順次、記事にしていくつもりです。
 今までの私の考え方は、ヨーガ、仏教、キリスト教、神智学、スピリチュアル、その他、さまざまな教えで説かれている共通したエッセンスを土台に構築してきました。本質的ではない教義などは無視し、本質であると思われるものだけを取り上げて、それを真実の教えと位置づけ、いかに霊性を進化させるか、ということをテーマにしてきました。
 たとえば、霊界、生まれ変わり、カルマの法則、神や守護霊の存在といった教えを土台にした上で、霊性を進化させるにはどうすればいいかと探求してきたわけです。
 つまり、霊界、生まれ変わり、カルマの法則、神や守護霊の存在といったものが真実であるという前提で、考え方を展開してきたのです。
 しかし最近、そうした考え方には、二つの大きな欠陥があるのではないかと、考えるようになりました。
 ひとつは、霊界も、生まれ変わりも、カルマの法則も、神も守護霊も、存在しない可能性があるということです。そう考える根拠や理由は、今後、記事にしていくつもりですが、もちろん、真実はわかりません。科学的に証明することはできないでしょう。存在するかもしれませんし、存在しないかもしれません。仮に存在するとしても、私たちが想像しているものとはまったく違ったものであるかもしれません。
 万が一、そういったものが存在しなかったら、今までそういったものを考え方の土台にして積み上げてきたものが、根底から覆されることになります。これはもう、ある種のギャンブルのような、危険な賭けです。「信仰とはそういうものだ」と言われればそうなのでしょうが、ときにそれが人生の重大な損失に結びつきかねません。
 たとえば、輸血を禁止している宗教があります。そのため、その宗教の信者の子供が事故や病気で輸血が必要になったとき、それを拒んで子供を死なせてしまうということが、実際に起こっています。しかし、もし後になってそのような教えが間違いだったことが何らかの形で証明されたとしたら、どうでしょうか。もはや、取り返しがつきません。間違っていたではすまされないのです。
 ですから、私たちは、存在するのかしないのか、はっきりしない不確かなものの上に、考え方や生きる指針を構築するべきではないと思うのです。本当に確かなものの上に構築するべきだと思うのです。
 このことは、「信仰」を否定していることになります。なぜなら、信仰とは基本的に、不確かなものを信じることによって成り立っているからです。

 不確かなものを基盤としている信仰では、人格や霊性を変容させることに限界があると考えています。ある程度は効力がありますが、限界があるのです。
 たとえば、仏教ではカルマの法則(因果応報)を説いています。悪いことをすれば、いつかその報いを受けて苦しむことになるというのです。ですから、本当に仏教(因果応報)を信じていれば、悪いことなどできないでしょう。
 しかし現実は、悪いことをしている仏教徒などたくさんいます。
 それはなぜでしょうか?
 彼らは、悪い報いを受けることを覚悟で悪いことをしているのでしょうか?
 そうは思えません。本当には信じていないから、悪いことができるのです。本当に信じていれば、悪いことなどできないはずです。
 では、なぜ本当に信じていないかというと、因果応報といっても、証明されたわけではなく、しょせんは「わからないもの」だからです。不確かだからです。「本当にそんなものがあるのか」と、疑おうと思えばいくらでも疑うことができるからです。そのため、信じきることができないのです。
 もしも、因果応報が、数学のように誰が何と言おうと否定できない真理であるならば、本当に信じることができるでしょう。そうなると「信じる」というより、「認識する」と言った方が正しいと思いますが、とにかく、悪いことはしなくなるでしょう。

 あるいはまた、「守護霊が災難から守ってくれる」という教えを信じたつもりでいても、いざ巨大地震や津波や洪水などに襲われて、家が崩壊しかけたり、濁流に飲み込まれそうになったとき、「守護霊が守ってくれるから大丈夫だ」と安心立命の境地でいられるでしょうか。
 そういう強い信仰を持った人もいるかもしれませんが、稀だと思います。安寧に暮らしている状態、あるいは多少の苦しみ程度の状態であれば、神や守護霊を信じることができる(信じていると思い込むことができる)でしょうが、いざとなれば、パニックになって信仰も何もかもかなぐり捨ててしまう人がほとんどだと思います。
 それも結局、不確かなものを信じているからです。不確かなものは、本当に心の底から信じることはできないのです。できる人がいるとしたら、狂信者です。狂信者はどんなことでも信じてしまいます。だから邪教と呼ばれる集団が存在しているわけですが、狂信は危険です。一歩間違えれば殺人も正当化し、人の人生も自分の人生も台無しにしてしまいます。しかし狂信者でなければ、不確かなものを心の底から信じることは、おそらく不可能だと思います。

 このように、霊的次元の事柄という、不確かなものを信じるところから始まる宗教やスピリチュアルの教えでは、そもそも無理があるのです。多くの人は、自分は信じていると信じているだけであって、本当は信じていないのです。
 しかし本当に信じていなければ、より正確に言うならば、認識していなければ、人を根底から変容させることはできないと思います。ちょっと何かあれば、ガラガラと崩れ去っていくもろいものです。そんなものは役にたちません。だからといって狂信はできません。
 私たちが本当に変容するためには、確かなものの上に考え方の基盤をおかなければならないのです。確かなものを信じる(認識する)必要があるのです。

 ところで、釈迦やイエス、その他、偉大な聖人たちは、霊界や生まれ変わりやカルマの法則や神や守護霊といったことを説きましたが、彼らは本当にそれらを信じていたのでしょうか?
 それらを「認識」していたのでしょうか?
 私は次のように考えています。
 彼らは、彼らが見たものを信じた(認識した)に過ぎません。
 たとえば、私があなたの前で、「念力でスプーンを曲げます」と言って、スプーンを曲げたとします。今まで念力など信じていなかったのに、いざ目の前でスプーンが曲がるのを見て、あなたは念力の存在を信じるはずです。信じるというより、認める(認識する)でしょう。
 しかし、実はそれは手品で、誰にもわからないような巧妙なトリックによるものだったとします。つまり、あなたは念力の存在を信じていますが、実は、念力ではなかったということです。
 同じように、聖人たちは、霊的な事柄に関する非常にリアルな体験をしたので、それが実際に存在するかのような確信を持ったのですが、実際には存在しないものだったと、私は考えています。霊界や生まれ変わりやカルマの法則や神や守護霊の、ある種の幻想を見て、その幻想を真実だと錯覚してしまった可能性があるのです。聖人たちは嘘を言っているのではなく、彼らが見たものが真実ではなかったのです。要するに、彼らはそれを真実ではないと気づくことができなかったのです。
 聖人といえども、肉体を持っている限りは人間です。人間であれば間違いも犯します。聖人と呼ばれているからといって、全知全能な存在として神格化することは正しくありません。
 たとえば、統合失調症の人は幻想を見ます。彼らにとってそれは幻想ではありません。現実なのです(幻想だとわかれば病気ではありません)。聖人と統合失調症を同列に並べるつもりはありませんが、ここで申し上げたいのは、人間というものは、幻想をリアルな現実と見てしまう機能が備わっているということです。それは人間(脳)の限界なのです。いくら偉大な聖人だからといって、脳がある限り、間違いを犯す可能性はあるのです。

 不確かな霊的な事柄を土台にして考え方を構築する欠陥の二つめは、意識を条件づけしてしまうことです。条件づけられた意識が高い霊性を得ることはできません。
 どういうことかというと、たとえば、先に出てきたカルマの法則(因果応報)ですが、このカルマの法則の教えは、人を悪い行為から遠ざける効果があると言う人がいます。確かにそうだと思います。その教えを聞いて「報いが怖いから悪いことをするのはやめよう」と思う人もたくさんいるでしょう。また、「よいことをすればよい報いがあるから、よいことをしよう」と思う人もたくさんいるでしょう。もちろん、すでに述べたように、これは不確かなことなので、いざとなれば悪い行いをする人もたくさんいるでしょうが、それでもこの教えは、ある程度、倫理道徳面で貢献していることは確かだと思います。
 けれども、そのように条件づけられた倫理性や道徳性は、本物なのでしょうか?
 逆に言えば、「報いがなければ悪いことをしてもよい」ということになり、「よい報いがなければよい行為をしない」ということになってしまいます。
 要するに、条件づけられており、ある種の「取引」ということになります。金儲けのために商取引をするのと本質的に変わりません。あるいは、動物がエサが欲しくて、あるいは罰を受けるのが怖くて、主人の言いなりになるのと同じです。
 ここには、倫理性も道徳性もありません。本当の倫理道徳であれば、罰があろうとなかろうと悪いことはしないでしょうし、報酬があろうとなかろうと、よいことをするでしょう。それが本当の倫理性であり道徳性です。そうしたものがなければ、宗教とは言えないと思います。霊性の進化はないと思います。

 ところが実際は、宗教の世界は、巧妙な「取引」が蔓延しています。
 折伏(しゃくぶく)などといって、強引に信者を増やそうとしている教団があります。「信者になればその人が幸せになる」という純粋な動機からそうしている人もいるかもしれませんが、ほとんどの人は、「信者を増やせば功徳がある」とか、「信者を多く入会させれば教団内での地位が上がる」といった動機でそうしているのです。つまりは取引であり、しょせんは自分(エゴ)のためであって、単なる物欲と本質的に変わりません。
 仮に、因果応報が確かな真実であると証明されたとするならば、功徳はお金と同等になります。そこまではっきりすれば、もはや宗教ではなく、ビジネスとして認識されるでしょう。ビジネスの本質は取引ですから、それはそれでいいのです。ビジネスの使命は金儲けであり、霊性の進化ではありませんから。法律を犯さない限り、取引であっても何の問題もありません。
 しかし、霊性の進化をめざすはずの宗教の世界に、取引という条件づけが入り込むと問題が生じるのです。倫理道徳を破壊して霊性進化の障害になるからです。
 ですから、不確かな事柄を、宗教の基盤に置くべきではないのです。その不確かな事柄は、ビジネス(取引)の領域に属するかもしれないからです。
 実際、因果応報に倫理道徳的な意義を見出そうとする教えは、取引の考え方です。しかも、きわめて幼稚です。なぜなら、「よいことをすればおもちゃを買ってあげる。悪いことをしたらお尻を叩くわよ」といって子供をしつけるようなものだからです。大人であれば、褒美や罰に関係なく、「よいことはよいことだからする、悪いことは悪いことだからしない」といった、取引を超えた倫理性や道徳性を備えているでしょう(備えていない人もいますが)。
 因果応報を掲げて「だから悪いことをするな、よいことをしなさい」と言うのは、私たちを子供扱いしているのです。むかしはそれでよかったかもしれませんが、現代では、きわめて低次元な教えと言わざるを得ません。

 あるいは、「神の道具として人に愛の奉仕を捧げる」という人がいます。キリスト教の信仰者に見られます。アッシジの聖フランチェスコがその典型です。
 こちらは、功徳めあてに折伏するような人よりはずっと純粋で、倫理性や道徳性が高いと思いますが、それでもまだ条件づけられています。
 この人は「神の道具」ということを、自分のアイデンティティとしているからです。つまり、自己価値観を高めるための拠り所にしているのです。そのため、「神の道具になれば、神に喜んでもらえる、愛してもらえる、認めてもらえる」と思い、そんな自分に満足を見出そうとします。なかには「自分は神の道具なんだぞ、すごいだろう!」といった自慢の気持ちがあったりもします。
 こうしたことも、取引です。「自分のアイデンティティを満たす」という「報酬」を求めているからです。それでは「愛の奉仕」にはなりません。「愛」も「奉仕」も、いかなる報酬を求めない純粋で無条件なものだからです。
 いかなる報酬を求めることなく、神から愛されようと愛されまいと、認められようと認められまいと、完全に無条件の愛の奉仕ができる人こそが、本当の宗教者であり、霊的な覚醒者ではないでしょうか。

 しかし、神だとか霊的な事柄を信仰すると、どうしても完全に無条件にはなり得ないのです。
 たとえば、信仰深い善意ある人は、あらゆる人を受け入れる慈愛とゆるしの心があると思いますが、ひとつだけゆるせないものがあります。それは、自分の信仰を否定する人です。そういう人に対しては、「愛の奉仕」はできないでしょう。それどころか、憎悪さえ湧き上がってくるかもしれません。それは、自分のアイデンティティとなっている信仰を攻撃されたからです。要するに、自分のアイデンティティを傷つけられたからです。
 信仰という、不確かなものをアイデンティティにしているから、こういうことになるのです。それは弱点です。ですから、アイデンティティを守るために攻撃的になったり、あるいは逃避したり(真実から目を背けたり)するのです。
 いかなるアイデンティティも持たなければ、完全に無条件となり、いかなる人も受け入れることができます。アイデンティティを持たなければ、守るべきものがありませんから、攻撃的になることも、怖れることもなくなります。
 このように、アイデンティティがある限り、無条件に愛することはできません。愛がなければ、宗教とは呼べないでしょう。したがって、「私はキリスト教徒である、仏教徒である、スピリチュアルな真理の伝道者である、神の道具である……」といったアイデンティティを持っている人、要するに、宗教を信じている人ほど、実は宗教から遠ざかってしまう可能性が高くなるのです。
 霊界だとか、生まれ変わりだとか、カルマの法則、神や守護霊といったことをアイデンティティにしている人は、そうしたものを否定されると、怒りや憎悪、あるいは恐怖が湧いてくるでしょう。その時点ですでに、宗教でもスピリチュアルでもなくなってしまうのです。怒りも憎悪も恐怖も「煩悩」だからです。宗教やスピリチュアルは煩悩をなくすために存在するのだと思いますが、皮肉なことに、宗教やスピリチュアルそのものが、煩悩の温床になっている側面があるのです。宗教やスピリチュアルの敵は、他でもない、宗教やスピリチュアル自身ということになるわけです。

 
話をもとに戻しますが、霊界だとか、生まれ変わりだとか、カルマの法則、神や守護霊といったものが存在するかどうかなど、わからないのです。にもかかわらず、わからないものを考え方の基盤にし、その結果としてアイデンティティにしてしまうから、大きなあやまちを犯すことになるのです。
 ですから、霊界だとか、生まれ変わりだとか、カルマの法則、神や守護霊といったものは、信じてはいけないのです。信じることも、否定することもなく、わからないという状態のまま歩んでいくべきなのです。
 「わからない」という状態は、居心地が悪いかもしれません。物事を白黒はっきりさせた方が安心します。しかしそれは、落とし穴ともなります。幻想や偏見や迷信といった落とし穴にはまってしまうのです。それらによって身動きできなくなり、柔軟性が失われ、視野が狭くなり、不自由になります。
 「わからない」という現実を受け入れてしまえば、何ものにもとらわれることなく、物事を広い視野からありのままに見ることができ、自由で生き生きとしていられます。
 「わからない」ことを受け入れている人は、アイデンティティを持っていない、持っていても希薄です。アイデンティティを持たないとき、愛と奉仕ができる可能性が開かれていきます。愛と奉仕ができる人こそが、真に宗教的な人であり、真にスピリチュアルな人と言えるはずです。
 「わからないものは、わからないのだ」と考えることが、まっとうな考え方なのです。不確かなものを不確かだと考えることが、確かなことなのです。そうした確かなものの上に、教えというものを構築していくべきだと思うわけです。
 そうすれば、以上述べた二つの欠陥を回避することができるはずです。

 したがって、今までこの独想録では、古今東西の聖人の教えだとか、霊界、生まれ変わり、カルマの法則、神や守護霊といったものを真実であるとして、さまざまな話を展開してきたのですが、今後はそうしたものは「真実かどうかわからない」ものとして、話を進めていきたいと思います。信じることもしないし、否定することもしない、という立場です。
 言い換えれば、いかなる宗教的な教えをアイデンティティにすることなく、アイデンティティそのものを消していく方向で、話を進めていこうと思っています。それは「自分は何者でもない」という意識であり、「自分の本質は空(くう)だ」という意識です。あるいは「自分」という自覚さえ持たない意識と言えるかもしれません。
 そのような方向性こそが、本当に私たちを霊的な進化に導いてくれて、無条件の愛に導いてくれると思うのです。
 今後、そのような生き方をめざして、考察を進めていきたいと思っています。



 7月4日 正直に道を歩む
 
「裸の王様」という、誰もが知っているお話があります。詐欺師の仕立て屋から「馬鹿には見えない布」で作られた服だと言われ、王様がそれを着たつもりで街を歩きます。王様も民衆も自分が馬鹿だと思われたくないために見えるふりをしますが、ひとりの子供が「王様は裸だ!」と叫んだことで、自分たちはだまされていたことに気づくというストーリーです。
 この話はとても教訓的で、あらゆる状況に当てはまるものと思いますが、とりわけ宗教の世界にはよく当てはまるのではないかと思います。
 宗教の世界でよく言われるのは、「(この教えのすばらしさは)信仰の薄い者には理解できない」という言葉です。信者たちは、自分の信仰が薄いと思われたくないし、思いたくないので、教えに対して疑問があっても、疑問がないふりをし、この教えはすばらしいと信じ込もうとするのです。
 このような、言いたいことがいえない、ある種の「言論弾圧」がまかり通ると、創造性というものが失われてしまいます。
 どのような分野であれ、創造性なくして進歩はありません。進歩とは創造性によってもたらされます。創造とは、新しいものを生み出すことですから、当然、古いものは否定されます。古いものが否定されなければ創造はできません。
 しかし宗教においては、古いものを否定することはタブーなのです。教祖の語ったことを否定することはタブーです。もしそれをすると、その宗教の根幹を揺るがすことになるからです。組織は崩壊し、組織に依存していた人たちは困ることになります。
 そのために、何百年も何千年も前に生まれた宗教を、ほとんどそのまま信じ込んでいるわけです。つまり、進歩がないということです。
 ここにはまた、「教祖の語ったことは完璧だから、これ以上、進歩する余地はない」という考えがあるのかもしれません。
 しかし、世の中に最初から完璧なものなど、存在するでしょうか?
 最初に限らず、完璧なものなど、存在するでしょうか?
 地上のすべてのものは、進化していく存在だと思います。あらゆる生きものも、科学も文明も、すべてが進化の途上にあります。永遠に進化し続けていくのです。永遠に進化し続けていくということは、永遠に未完成ということです。完璧な状態は存在しないということです。
 生命というものは進化し続ける存在です。進化しないとしたら死んだ状態です。宗教も同じように、進化しないとしたら、それは死んだ宗教であり、死んだ宗教に人を救う力があるとは思えません。
 そもそも人間そのものが進化しているのですから、宗教もそれに応じて進化していくべきではないかと思うのですが、あいかわらず古い宗教を信じているのです。

 たとえば、「雷は神が怒っている証拠であり、神の怒りを静めるために動物を生け贄に捧げなければならない」といった宗教は、太古にあったようですし、今でも未開の地ではこうした宗教を信じている人々がいるかもしれませんが、文明社会に生きる現代の私たちから見れば、あまりにも原始的で幼稚であり、宗教というより迷信のように思われるはずです。
 雷の正体は、大昔はわからなかったので、あのものすごい音と光に接すれば、「神の怒り」のように思えても仕方がなかったのでしょう。しかし科学が進歩して雷の正体が静電気の大きなものに過ぎないことがわかっている私たちは、「神の怒り」などとは思っていません。そのようなことを説く宗教はありませんし、あったとしても馬鹿馬鹿しくて誰も信じないでしょう。
 ところが、仮に国民の大部分がこの宗教を信じていて、政治や経済に大きな影響を与え、この宗教の教えに反することを口にしている人を迫害するとしたら、どうでしょうか?
 おそらく、ほとんどの人は、怖くて反抗できないでしょう。内心は疑問を抱きながらも、それを打ち消すかのように、信じているふりをするでしょう。「雷の正体は電気だ」と提唱する科学者がいたら、その地位を奪われ、社会から葬り去られるでしょう。
 しかし、これと同じようなことは、宗教の世界で実際に起こってきたのです。
 たとえば、キリスト教では、ご存知のように天動説を主張し、地動説を認めていませんでした。地動説を唱えたガリレオは宗教裁判にかけられて迫害されました。結局、正式にキリスト教会が自分たちの天動説が誤りでガリレオの地動説が正しかったことを認めたのは、何と1992年なのです。さすがに、いくら熱心なキリスト教徒でも、天動説を信じている人はいなかったでしょう。その人たちは自分を欺いていたのでしょうか?

 
天が動こうか地が動こうが、そんなことはキリスト教(イエス)の教えにとってどうでもいいことではないでしょうか。そんなくだらないことのために、火あぶりにあって殺された人がいたのです。それが、「愛の宗教」を自認するキリスト教のやることなのでしょうか?
 地動説を認めたことは、ひとつの進化と言えるかもしれませんが、ガリレオの時代から四百年近くもたってから、しかも、しぶしぶ仕方がなく、といった感じですから、とても自ら進化しようという意志がないことは明白です。

 地動説の場合は、数学や物理という、誰が見ても否定しようがないエビデンスをつきつけられたわけですから、反論のしようがありませんでしたが、その他の大部分は、実証できないものばかりです。たとえば、「イエスは神の一人子であり、イエスが人類の罪を代わりに背負ってくれた」と言われますが、それを実証することはできないでしょう。肯定も否定もできないわけです。
 あるいは、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると説き、「南無阿弥陀仏」を唱えると地獄に堕ちると主張しています。しかし、それを実証する手段はありません。経典に書かれてある文言を根拠にしても、その経典そのものが真実かどうか実証できないのですから、意味がありません。結局、地獄に堕ちるかもしれませんし、堕ちないかもしれない。わからないのです。
 そうなると、結局のところ、それをどう判断するかは、自分自身にかかっていることになります。自分はどう考えるかということが、もっとも重要ではないかと思うのです。
 一番いけないのは、本心では疑念を抱いていながら、でも長い伝統もあるしたくさんの人が信じているからという、ある種の「権威」に惑わされて、信じているふりをすることです。
 いうまでもなく、信じているふりでは、本当に信じていることになりませんから、その信仰には意味がなく、やらないほうがましです。
 もちろん、自分の疑念が間違いである可能性もあります。しかし、間違いだとわかったら改めればよいだけのことです。そうすれば、しだいに本物に近づいていくでしょう。しかし、信じているふりをしている限り、本物に近づいていくことはありません。
 裸の王様の物語も、大人たちが権威だとか、自分の虚栄心(エゴ)に弱くてだまされやすいということを突いているのだと思います。王様が裸であると言えば、自分が馬鹿であることを表明することになるし、同時に、王様がだまされていることを指摘することになります。つまり、だまされるほど王様は馬鹿だと言っていることになります。権威ある人を「馬鹿だ」などと言えません。しかし、子供はそうした権威にとらわれていませんから、自分に正直になって、自分に見えたものをそのまま口にしたのです。私たちは、この子供の正直さを見習うべきだと思います。求道者というものは、正直でなければならないと思うのです。

 繰り返しますが、権威にとらわれてはいけません。もともと宗教に権威などは必要ないと思うのですが、権威がないと人が集まらないのでしょう。そのことをよくわかっているので、宗教の世界でも権威を利用しようとするのです。
 宗教組織に限らず、たとえば巷では、覚者を名乗る人たちがいます。そして、自分はヒマラヤで修行したとか、偉い聖者の弟子だとか、前世は偉大な聖者だったとか、インド政府から聖者として認められたとか、多くの弟子に囲まれているとか、とにかく「すごいなあ」と思わせるような、さまざまな権威づけをしています。
 そうした権威を知ってから、その「覚者」の話を聞くと、内容的にはまったくつまらないものであったとしても、何となくありがたく、すばらしいものに聞こえたりするものです。
 ですから、そうした人たちの話を聞きに行く際には、まず権威という背景を頭から追い出して、先入観のないまっさらな心で聞くことを勧めます。むしろ、「そのへんにいるおじさんの話」くらいに思っているくらいでよいかと思います。
 そして、それにもかかわらず、その話に感銘を受け、心に響くものを感じたならば、その人は確かに「覚者」の可能性があるのかもしれません。少なくともあなたにとっては、教えを受ける価値がある可能性があります。

 
とはいえ、それでも道を歩む主体はあなた自身です。人の言いなりではなく、自分自身で舵を取っていかなければなりません。そのためには、権威に惑わされず、自分に正直になって、違うと思うなら違うと思うと、はっきり言えるようでなければなりません。そうしてこそ、創造性がそこに生まれ、あなたの宗教(信仰)は進化していきます。真理に近づいていきます。
 そのような姿勢は、宗教組織からは敬遠され排除されることになるかもしれません。異論をはさまず伝統的な教えをみんな同じく共有する(盲従する)ことを強要しているからです。
 しかし、真の霊性向上は、こうした、ある種のマスプロ教育などでは達成できません。ひとりひとりが創造性を発揮して、「自分だけの宗教」を見出さなければならないのです。人間の数だけ宗教の数があるのです。真の宗教とは、基本的に「オーダーメイド」なのです。自分で、自分の宗教を創り上げていかなければならないのです。
 ですから、宗教の本来の目的である霊性の向上と真理を求めようとするならば、つまり、本当に宗教の道を歩もうとするならば、必然的に、孤独な道を歩むことになるでしょう。

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