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 2017年6月の独想録


6月25日 人生は演劇のようなもの
 
先日、タレントの小林麻央さんが34歳の若さでお亡くなりになりました。連日、大きなニュースとして取り上げられています。私は芸能界にはそれほど関心がないのですが、今回のことは特別な思いで見ていました。というのは、かつてがん患者のためのホスピスで心理カウンセラーをしていたとき、麻央さんととてもよく似た患者さんがいたからです。
 その方も麻央さんとほぼ同じ35歳の若さでがんで亡くなりました。肺がんでした。25歳くらいのときからさまざまな病気になって入退院を繰り返し、ついにはがんでお亡くなりになったのです。25歳から35歳といえば、おそらく人生でももっとも充実した幸せな年代かと思いますが、彼女はその間、ほとんど闘病生活をしていました。結婚もしていませんでした。普通に考えれば、人生を呪いたくなってもおかしくない悲惨な状況です。
 けれども彼女は、そうしたものはまったく感じることなく、とても明るく品位があり、そして何よりも、人のことを気遣う優しさ、思いやりに溢れていました。麻央さんの場合も、報道によれば、そうであったといいます。一番苦しいのは自分であるはずなのに、いつも人のことを気遣っていました。
 私たち医療スタッフは、この患者さんのそうした振る舞いに深い感銘を受けました。「神々しいくらいだ」とまで語るスタッフもいました。そして、患者の死に慣れている私たちでしたが、彼女が亡くなったときはみんな悲しみに沈みました。
 今回、麻央さんが亡くなられたニュースを見て、私はこの忘れがたい患者さんのことを思い出し、胸が締め付けられるような思いがしました。

 それにしても、こういうことがあるたびに、私はいつも思います。それは、「よい人は早く死んでいくなあ」ということです。私はたくさんの患者さんが亡くなっていくのを見てきましたが、その多くが本当によい人たちでした。なぜよい人がこんなに苦しんで、まだ死ぬほどの年齢でもないのに死んでいかなければならないのかという疑問と憤りを感じました。生きていれば、この世の中をよいものに変えていく影響力を放っていたに違いないと思えるような人ばかりでした。
 これと同じ感想を、ユダヤ強制収容所を経験した精神科医V・フランクルも述べています。「よい人は早く死んでいく」と。こうした思いを抱くのは私だけではないとわかりました。もちろん、だからといって、長生きしている人は悪い人であるというわけではありませんが。
 もし神がいて、神はこの世をよくしていくのが使命であるとするなら、なぜよい人を早く死ぬことをゆるしているのか、私にはわかりません。「神の真意は人間には計り知れないものなのだ」などと言われますが、まさにその通りなのでしょう。
 ただ私は、計り知れないのに無理に神を信じようとしなくても、単純に神はいないのだとした方が、合理的な判断ではないかと思ったりもするのですが、そのへんは信仰の問題なので、とやかく言うつもりはありません。実際、神は私たちには想像もできないような、完璧な計画を持っているのかもしれません。それを否定する根拠はありません。
 ただ私としては、単純に神はいないのだと思っています。少なくとも、人格神というものは。

 さて、私はこの患者さんのことを、講演などでよく話したりするのですが、あるとき、話を聞きにきてくれた人から、こんなことを言われたことがありました。
 「人に気を使うよい人だから、がんになったのではないでしょうか?」
 確かに、がんになりやすい性格といった記事を見ますと、「人に気を使う優しい性格」といった特徴があると書かれてあったりします。
 これを読んだとき、私は疑問を覚えました。
 「人に気を使って優しいことは、よいことである。なぜよいことをしているのに、がんになって苦しんで死ななければならないのか?」と。まさに、人生の不条理を感じました。
そして、「では、どうしたらいいというのか」と悩みました。人に気を使って優しくなったりせず、自分勝手に生きればいいというのかと。
 もちろん、がんになる原因は複雑で、単純に「よい人だからがんになる、悪い人はならない」と結論づけることはできないでしょうし、仮にそうした性格特徴が見られるとしても、その背後にある深い動機といったところまで調査しなければ、真相はわからないと思います。
 ただ、もし本当に文字通り、「人に気を使う優しいよい人ががんになりやすく、人に気を使わない自分勝手な人はがんになりにくい」ということが真実であるとしたら、私はあえてがんになる道を選ぼうと思いました。
 自分勝手に生きて、つまり、大なり小なり人に迷惑をかけたり不愉快にさせる生き方をして長生きしたとしても、それが何だというのでしょう。そんな生き方をして嬉しいでしょうか?
 人生の価値は、その長さで決まるわけではないと思います。
 たとえ短くても、それまでの人生がすばらしいもので、世のため人のためになるようなものであったら、その方がずっと価値があると思います。存在した意味があると思います。
 人生とは、演劇のようなものだと思います。人は観客であり、舞台の上に立つ俳優です。なぜなら、人は誰でも他者から見られ、他者を見ているからです。無人島で過ごすのではない限り、常に私たちは「観客」から見られている「俳優」なのです。
 長いばかりで何の感動も与えない演劇など、退屈でつまらないだけの駄作です。しかし、たとえ上演時間は短くても、すばらしい感動を与えるなら、それは名作としていつまでも人々の記憶に残り、また後世の人々の生きるお手本になります。いわゆる不朽の名作です。
 私たちは駄作ではなく、見るものをいつまでも感動させる「不朽の名作」として、人生を創造していきたいと思うのです。
「人に気を使って優しく生きてがんになるというのなら、喜んでがんになってやろうじゃないか!」
 今では、そんな反骨精神を持っています。

 6月10日 「いい加減」な日本人
 前回は、少し「いい加減」なところがある宗教者の方が、愛の実践をはじめ、より宗教者らしいという話をしました。
 その点では、まさに日本ほど宗教に対して「いい加減」な国は珍しいと思います。
 たとえば、結婚式は教会であげ(キリスト教)、新年になれば神社にお参りに行き(神道)、お葬式はお寺で行う(仏教)といった感じです。私など、父から「うちは真言宗だぞ」と聞かされていたのですが、父の実家に行ったときお墓参りをしたら、曹洞宗でした(笑)。父が死んだときは日蓮宗で葬儀を行い、義理の父母は浄土宗で葬儀を行いました。
 こうしたことは、海外の人からは信じられないようです。確かに、クリスチャンがイスラム寺院で礼拝をしたりとか、そういうことは聞いたことがありません。ただ、クリスチャンが禅を学んだりすることはあるようです。しかしそれはあくまでも参考であって、アイデンティティとしては、クリスチャンであることに変わりはないでしょう。
 その点、日本では、特定の宗教を信仰している人をのぞいて、「自分は○○教徒だ」と明言することはほとんどありません。ある意味では無宗教と言えるわけですが、無神論者というわけでもないわけです。
 しかし海外では、無宗教というのは、ほとんど無神論者とみなされます。
 日本では、無神論者と宣言しても、ただ神の存在を信じないというだけですが、海外で「自分は無神論者だ」と言うと、やや大げさですが、「自分はならず者である」と宣言しているのと同じように見なされるのです。つまり、神を信じていない人は悪人である、控えめに言っても「モラルが低い人」ということを意味してしまうのです。

 では、私たち日本人は悪人でしょうか? モラルが低いでしょうか?
 犯罪率を見れば、そのことが一目瞭然です。ご存知のように、日本は世界的に見て異例なほど低い犯罪率を誇っています。もちろん、悪質な犯罪も頻繁に見られますが、それでも外国と比べればダントツに低いわけです。
 では、モラルはどうでしょうか?
 外国の人が日本に滞在して驚くことのひとつに、「落し物が返ってくる」ことがあります。街や電車などでお金が入った財布を無くしても、およそ七割の確率で落とし主のもとに戻ってくるのです。財布を見つけた人が交番や駅の係員に持っていくからですが、こうしたことは、他のどの国でもあり得ないことです。私たち日本人としては、別に当たり前のことだと思っていますが、外国人には「奇跡」と映るようです。
 他にも、日本人のモラルの高さは、あらゆる面で世界中の人から賞賛されています。日本人は悪人でモラルが低いどころか、きわめて高い道徳レベルを持ち合わせているのです。しかも、当たり前のこととして実践しているのです。別に自国を自画自賛するつもりはありませんが、そうした日本人のすばらしさは素直に認めてもいいと思います。
 そして、世界中をもっとも驚かせているのが、日本人の冷静さです。
 たとえば、阪神淡路大震災や東日本大震災のとき、あれほどの大惨事であるにもかかわらず、暴動も起きずに、物資の供給に際してはきちんと列を保って順番を待ちました。
 これも私たち日本人としては、当たり前のことであり、特に賞賛されるほどのことではないと考えるのですが、海外の人からは驚きの目で見られたのです。実際、海外でこんな災害が起こったら、暴動が起きて、スーパーなどは破壊されて略奪が起きます。
 こうした冷静さは、不動心と勇敢さがなければ発揮できないものです。不動心や冷静さは、深い信仰心を持っている人の特徴です。

 このような日本人を見た、イスラム教のある偉い人は、こんな言葉を残しています。
 「日本人はイスラム教徒ではないのに、イスラム教徒よりもイスラム教徒だ」
 イスラム教は、慈愛、正義、節度、助け合いの精神を土台としています。確かに、私たち日本人の生き方と共通するものを感じます。またキリスト教徒からも、同じように「日本人は理想的なキリスト教徒だ」という声が聞かれたりします。
 日本という国は、イスラム教でもキリスト教でもないのに、イスラム教的でありキリスト教的だというのです。おそらく、さらには仏教的であると言っても間違いではないでしょう。
 つまり、一見すると無宗教に見える私たち日本人は、実は非常に宗教的な民族であるということなのです。もちろん、上記のようなすぐれた日本人の特性は、文化や伝統や教育といった、他の要素によっても形成されてきたと思いますから、宗教的な面だけで解釈できるわけではありませんが、それでもやはり、宗教に対する向き合い方が正しいので、すぐれた特性を発揮しているのではないかと思うのです。
 結婚式や初詣や葬式など、状況によって違う宗教を採用する「いい加減」な民族が、なぜ宗教的だと賞賛されるのでしょうか?
 それはまさに、その「いい加減さ」にあるわけです。
 「いい加減」というのは、もちろん言葉のあやで、形式にとらわれず宗教の本質である精神性を体現しているということです。こうした日本人の宗教性を、確か禅の大家であった鈴木大拙は「日本的霊性」という言葉で表現していたように思います。

 言うまでもなく、宗教の本質は理屈ではなく、その精神と生き方にこそあるわけですから、その精神と生き方が宗教的であれば、教義などの理屈は、どうだっていいのです。教義というものは、精神や生き方を宗教的にさせるための手段に過ぎません。教義そのものが目的ではないのです。
 ところが、外国の宗教は、あまりにも教義や形式にこだわりすぎるために、本質がおろそかになってしまうのです。知識を学び教義を守っているだけで、まるで精神や生き方まで宗教的になったような錯覚を起こしてしまうのです。つまり、手段と目的が逆になっているのです。
 「イエスを信じる者のみが救われる」だとか「アラーの他に神はなし」などと言うのは、その文面通りに受け入れてはいけないのです。「イエスを信じる者のみが救われる」という真意は、私の解釈では「内なる神性を信じる者のみが救われる」ということであり、「アラーの他に神はなし」というのも、「アラー」とは内なる神性のことであると思っています。なぜなら、神性はすべての人間に宿っており、すべての人間に宿っている存在こそが神ではないかと思うからです。

 「アラーの他に神はなし」という教えをそのまま解釈すれば、「エホバ」と呼ばれるユダヤ教の神は神ではないことになります。日本の天照大神(あまてらすおおみかみ)も、神ではなくなってしまいます。
 このような「言葉遊び」はナンセンスです。こんなくだらないことで宗教どうしが争ったり殺しあっているなど、もうたくさんです。こんな人類のありさまを、進化した宇宙人が見たら、そのあまりにも低次元の馬鹿馬鹿しさに、あきれ果てるのではないかと思います。
 教義にとらわれている限り、世界から戦争はなくなりません。
 世界を平和にするには、「いい加減」でなければならないのです。
 その意味で日本は、世界を平和に導く可能性を秘めた国と言えるかもしれません。
 

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