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 2017年5月の独想録



 5月25日  真の宗教
 
イギリスでまたしてもテロが起きました。八歳の女の子をはじめとして、二十人以上もの罪のない人々が犠牲になりました。イスラム国が犯行声明を出しています。
 テロというと、かつては政治権力などの弾圧を受けた人が、それに対抗するために行う非常手段でした。しかしイスラム国の場合、それとは少し違っています。彼らの目的は、この世界すべてを、彼らの信じるイスラム教で支配することです。
 ここで見過ごしてはならないのは、「彼らの信じるイスラム教」ということです。つまり、自分たちの宗派を押し付けているのです。そのため、同じイスラム教でも違う宗派のイスラム教徒を殺しています。
 イスラム教に限らず、キリスト教でも仏教でも、そのなかにさまざまな宗派ができて争いあっています。最初はひとつの宗教であったものが、内部分裂して「内ゲバ」を起こしているのです。宗教が宗派に分裂し、さらにその宗派がさらに分裂していたりするわけです。仏教の場合、禅宗だとか真言宗だとか浄土宗だとか日蓮宗といった宗派に分裂し、さらにそれぞれの宗派のなかで小さな宗派に分裂しています。
 したがって、仮にイスラム国が、彼らの信じるイスラム教で世界を支配し、世界中の人が彼らの信じるイスラム教徒になったとしても、テロはなくならないでしょう。いずれ内部分裂して、それぞれが「自分たちの教えこそ唯一正しい」などと主張し、争うようになるでしょう。そうして同じようにテロが起きるでしょう。

 宗教というものは、程度の差はあれ、独善主義に陥ります。そのはなはだしいものが原理主義ですが、他宗教への寛容を説く宗教でも、本音を言えば、他宗教の存在など認めたくないのです。まして、他宗教が勢力を増してどんどん信者を増やしていくようなことが起きれば、穏やかではいられません。争いが起こることになるでしょう。
 イスラム国の信者は、「神は自分たちが信じるイスラム教を世に広めることを望んでいる。そのためには、罪のない人々、子供であっても殺してもかまわない。それが神の御心にかなうことなのだ」と考えているのでしょう。自分たちは神の名のもとに正義を行い、愛を行っているのだと思っているのでしょう。宗教がもたらす独善主義のなりの果てです。
 しかし、「教えを広めるためなら子供を殺してもよい」などと、そんなことを神が言うなどと、どうして信じられるのか、不思議でなりません。それだけ洗脳されているということなのでしょうが、オウム真理教も同じでした。自分たちの教えを否定する弁護士、さらにその妻と子供まで殺害しました。サリンをまいて、罪のない人々を殺しました。

 世の中には、宗派の数だけ神(仏)が存在しているのです。そのうち、ひとつの宗派だけの神が真実で、他はすべてニセモノなのでしょうか?
 そうは思えません。すべてがニセモノなのです。自分たちが勝手に作り上げた幻想であり、妄想の産物なのです。
 神も宗教も、人間のエゴが勝手に作り出した幻想なのです。
 「教えを広めるためなら罪のない人をいくら殺してもよい」などと言う神は幻想であり、「苦しいときは必ず助けてやる」という神も幻想です。守護霊というものも存在しないと私は思っています。なぜなら、実際に私たちは守護されていないからです。テロの犠牲になった八歳の女の子の守護霊は何をしていたのでしょうか? 守ってあげられなかったではありませんか。
 このように言うと、「いや、過去生のカルマを解消させるために、守護霊は犠牲になることを認めたからそうなったのだ。その方がよかったのだ」と言う人がいます。
 しかし、「守護霊はあなたを守っている」などと言っておきながら、いざ悲惨な状態になると「それはカルマの解消だ」などと言うのは、ある種の二枚舌であり、「後づけ解釈」としか思えません。狡猾さを感じます。どのみちカルマの解消が優先されるのだったら、「守護霊はあなたを守っている」などと言うべきではないでしょう。人をだますことになります。仮にそのような霊が存在するとしたら、それは「守護霊」ではなく、「カルマ解消の推奨者」と呼んだ方がふさわしいと思います。守護霊などは存在していないのです(霊的な直感として守護霊の存在を感じることがありますが、それにはカラクリがあるのです。これについては別の機会で説明することにします)。

 しかし今度は、見方を180度変えて考察してみたいと思います。
 すると、神や仏や守護霊は存在することになります。宗教も幻想の産物ではありません。
 どういうことかと言いますと、私たち人間が「神」を感じるときというのは、おそらく二つあると思います。ひとつは大自然の摂理を観察したときです。そこには人間を超えた偉大なる支配者のような存在を直感的に感じます。人間はそれを「神」という言葉で表現したのです。ただし、その「神」は、いわば宇宙の法則のような神で、苦しいときに人間を救ってくれるような人格神ではありません。
 もうひとつは、人間の愛に触れたときです。このとき私たちは、何か偉大で崇高な、またあたたかくてすばらしい存在を直感的に感じるのです。そしてそれを「神」だとか「仏」だとか「守護霊」という言葉で表現したのです。その「神」は、苦しいときに救ってくれる人格神です。通常、私たちが思いをはせている神です。
 つまり、神というのは、自然の摂理のことであり、愛のことなのです。自然の摂理に接し、愛に接したときに、私たちは神の存在をダイレクトな直感として感じるのです。
 ところが、そのダイレクトな直感に、神という名称をつけ、知的なアプローチによって認識した瞬間、もう神は存在しなくなるのです。まして、複雑な教義や教学などを構築したら、そこには神のかけらも存在しません。そこに存在するのは、知性(エゴ)が勝手に作り上げた幻想であり妄想です。

 信仰に熱心な人ほど、こうした教義を堅く信じ、戒律などを守ろうとします。しかし皮肉なことに、そのように熱心になればなるほど、神は遠くへ去ってしまいます。
 アメリカのすぐれた社会学者であったピティリム・ソローキンは、どのような人が無私の愛の行為をしたかという、統計的な調査と分析を行いました。対象となったのはアメリカ、すなわちキリスト教の国でしたが、驚くべき結果が出たのです。予想では、熱心なキリスト教徒ほど無私の愛を実践し、無神論者はそういう行為はしないと思われましたが、実際には、熱心なキリスト教徒ほど愛の行いをしなかった、無神論者の方が愛の行いをしたという結果が出たのです。愛の実践をした大多数の人は、いちおうキリスト教徒ではあるが、教義や戒律を堅く守っているわけではなく、ある意味で少し「いい加減」なところがある人たちでした。
 これと似たような話は、けっこう耳にします。仏教の世界でも同じです。おなじみの禅僧、一休さんなどは、飢餓に苦しむ民衆が禅宗よりも浄土真宗によって救われていることを知り、あっけないくらい浄土真宗に改宗してしまいました。禅宗の関係者からは大ひんしゅくを買いましたが、一休にとっては、宗教や宗派などより、人を救うことの方が重要だったのです(もっとも、禅の根本思想は「なにものにもとらわれない」ということなので、禅という宗派そのものにもとらわれなかった一休は、真の禅者だったとも言えるわけですが)。
 ちなみに一休は破戒僧として有名でした。肉を食い女を抱きました。親鸞なども破戒僧でした。妻帯し女を抱きました。しかしこの二人は、民衆と苦悩をわかちあった愛の実践者として卓越していました。
 皮肉なことに、「いい加減」な宗教者こそが、実は真の宗教者の可能性があるということです。「いい加減」というと表現が悪いですが、要は「とらわれない」ということだと思います。

 このように、自然の摂理と人の愛に感応し、自然の摂理のまま生きる人、そして愛を実践して生きる人こそが、真に神を知る真の宗教者なのです。いわゆる無神論者と呼ばれる人であっても、愛の生き方をしている人であれば、神を知っている宗教者なのです。いくら神や教義に詳しくても、愛の実践をしない人は、宗教者とは呼べません。いくら口先だけ神を説いても、まったく布教にはなっていません。本当の布教とは、愛を実践することです。なぜなら、人はそのときにこそ神を感じるからです。たとえ「神」という言葉は浮かばなくても、むしろ、浮かばないからこそ、本当の意味で神を認識するのです。
 宗教というのも、自然の摂理にしたがって生きること、愛を実践して生きることだと考えます。それを「宗教」と呼んで知的に理解しようとしたとき、教義などを構築したとき、宗教ではなくなってしまうのです。愛こそが宗教なのです。
 そのようなことを理解した、真の宗教者であれば、独善的になりようがありません。テロなど起こるはずがないのです。
 全人類が、「宗教」という妄想から完全に解脱しない限り、いつまでもテロはなくならず、人類が平和になることは難しいと思います。言い方を換えれば、人類が真の「宗教」にめざめなければならないということです。


 5月11日 人は何によって救われるのか
 先日の子どもの日、NHKで「戦争孤児」について紹介されていました。
 ご存じのように、戦争孤児とは第二次大戦で親を失い路頭に迷った子どものことです。いわば子どものホームレスで、その数は12万人にも達したと言われています。子どもたちは駅や道端などで物乞いをしたり、ときには食べ物を盗んだりして生きていました。「盗みを働いた」わけですが、そうしなければ生きることができなかったのです。いったい誰がそのことを責められるでしょうか? 実際、相当な数の子どもが餓えや病気で死んでいます。悪いのは戦争をした大人たちです。子どもは被害者です。
 子どもたちの多くは疥癬という皮膚病にかかっていました。これは一種のダニが皮膚に寄生して生じるもので、猛烈な痒みとひどい皮膚の炎症に苦しみます。当然、人に伝染します。
 そのため、世間の人たちは、そうした戦争孤児に近寄ろうとしませんでした。「不潔、怖い」と嫌悪されていたのです。
 番組は、そんな戦争孤児のひとりAさんに取材しています。
 Aさんは空襲により落とされた爆弾で死んだ母親のことを語りました。顔の半分がなかったそうです。それを目の当たりに見て呆然となります。「人間は本当に悲しいときは涙も出ない」と言っています。
 そうして戦争孤児となったAさんは、餓えや疥癬で苦しみながら路上生活を送ります。ひとりの友達がいたのですが、その友達はあまりの過酷な生活に自殺してしまいました。優しい性格だったと言います。
 スピリチュアルの教えでは、「自殺した魂は罰を受けてあの世で苦しむ」などと言っていますが、果たして自殺したこの友達も、罰を受けて地獄で苦しむことになったのでしょうか? そうは思えません。そんな教えは、浅はかな「脅し」としか思えません。確かな根拠のない脅しをして自分の教えを押しつけるこうした行為を、私はスピリチュアル・ハラスメント(略してスピハラ)と呼んでいます。「自分の宗教を信じなければ罰を受ける、地獄へ堕ちる」などと言っている宗教信者などは、すべてスピハラです。
 Aさんは、親戚を頼って助けを求めました。そして親戚の家で生活をすることになったのですが、そこであからさまな虐待や冷たい仕打ちを受けました。耐えられなくなったAさんは家を飛び出し、再び路上生活を送るようになります。
 そしてついには、(おそらく悲しみや苦しみなどのストレスにより)、緑内障を患ってほとんど目が見えなくなってしまいます。過酷な路上生活と孤独、そして盲目、いったいどうすればいいのでしょうか。子どもがこれほどの苦しみを受けなければならない意味や道理など、どこにあるのでしょうか?
 Aさんは世の中を呪い、「社会にタテつく人間になってやる」と思ったそうです。つまり、悪い人間になって自分をこんな辛い目に遭わせた世の中に復讐してやると思ったのです。
 その後、Aさんは戦争孤児を保護する施設に入ることになりました。
 入所したとき、施設のひとりの先生が銭湯に連れていってくれたそうです。そして、共に裸になって、誰も気味悪がって触ろうとも、近づこうともしなかった皮膚病に侵された自分のからだを、この先生は丁寧に洗ってくれたと言います。
 そのことに感激したAさんは、まっとうな人間になることを誓い、その先生の薦めでマッサージ師となり、独立することができました。
 番組の最後にAさんはこう語っています。
「食べ物も着るものも欲しかった。でも、一番欲しかったのは(人の)ぬくもりでした」
 Aさんは、自分のからだを洗ってくれた優しい先生のぬくもりによって救われたのです。

 この番組を見て、私は考えました。結局、人を救うものは何なのかと。
 すばらしい説教でしょうか? 道徳、倫理、宗教などの高邁な教えでしょうか?
 確かに、そうしたもので救われる人もいるでしょう。
 しかし、ぎりぎりの状況で生きている人にとって、本当に救いとなるのは、Aさんが言うように「人のぬくもり」ではないのかと思います。高邁な教えではないのです。ましてや「悪いことをしたら罰を受けて地獄へ堕ちる」などといった脅しではありません。
 崇高な宗教の教えに通じ、幅広い知識を持ち、立派な説教をするが、その人柄にぬくもりを感じられない人がいます。おそらく、そのような人が悲惨な苦しみにある人を救うことはできないと思います。
 一方、宗教や学問といったこととは、およそ縁のない無学な母親などが、子どもを癒し、立派な人間へと成長させるといった例はたくさんあります。
 「ぬくもり」の源泉は、間違いなく愛でしょう。
 愛に関する知識を積めば、愛ある人間になれるとは限りません。それどころか、かえってエゴが増長し、愛が欠乏してしまう場合もあるように思います。
 愛についての立派な教説を語ることができても、愛がなければ、効能書きは立派だが薬効を持たない薬のようなものです。「自分は愛の宗教の信者である」と表明しても、愛がなければ、単なる「愛の宗教ごっこ」をして遊んでいるにすぎません。

 私は今回の番組を見て、果たして自分にはそうした「ぬくもり」があるかどうか、自省してみました。しかし、自分ではなかなか自分のことはわからないものです。
 しかし、これだけは気を付けようと思いました。それは「私にはぬくもり(愛)がある」という思い込みです。
 おそらく、本当に愛がある人は、「自分には愛がある」などとは思わないと思います。また、「愛がない」とも思わないと思います。
 本当に愛がある人は、そのようなことは思わず、きわめて自然体で、無意識のうちに、淡々と愛の行いをしているのだと思うのです。
 私は、愛に関する本をいろいろ読んできたので、知識だけはそこそこあります。また、おそらく愛に関する立派な説教をしようと思えばできると思います。
 しかし、そんなものはどうだっていいのです。せいぜい、ある種の「娯楽」的な意味を持つだけです。それは人を酔わせ、楽しくさせますが、愛は娯楽ではありません。
 たとえひとことも語らず、ただ存在しているというだけで、そこからぬくもりが、すなわち、愛が放たれるようでなければ、本物ではないのです。
 私は、そのような人になりたいと思いました。


 5月1日 宗教における練習
 たとえば、いくら野球のルールを熟知し、バットの振り方やボールの投げ方に関する知識が豊かであっても、実際にすばらしいプレーができなければ、ファンの支持を得られませんし、野球選手としての価値はありません。また、難解な音楽理論を熟知し、ピアノの弾き方に関してすばらしい講義をすることができても、実際にピアノが弾けなければ、ピアニストとは呼べません。
 要するに、およそ学者以外のプロと呼ばれる人たちは、実践ができるかどうかで、評価が決まるのです。医学に関する膨大な知識があっても、手術ができなければ、外科医とは呼べません。料理の仕方がわかっていても、料理ができなければ、料理人とは呼べません。
 ところが、宗教の世界だけは、難解で高尚な教義や知識を持ち、それを声高に口にするだけで、「すばらしい宗教者だ」「高い霊性を持っている人だ」「覚者だ」といった称賛を得られたりするのです。これは奇妙なことです。豊かな知識を持ち、それを講義できる人は、すぐれた学者とは言えるかもしれませんが、実践を伴わなければ、宗教者とは言えません。宗教の理念を実際に行動に表せる人が、本当の宗教者であり、高い霊性の持ち主であり、覚者です。
 たとえ宗教の教義だとか、難しい理屈など知らなくても、その人の生き方が宗教の理念に合致しているならば、その人は立派な宗教者です。知識は、あくまでも実践ができるようになるための手段として必要なだけであって、知識そのものには何の意味もありません。

 もちろん、最初は何であれ知識の習得から始めますので、知識を蓄えることは大切です。宗教的な教養を学ぶことは意義があるでしょう。問題は、その知識をいかに実践に移すか、ということです。多くの人は、知識が豊かだと、それだけで自分が偉くなったような気がしてしまい、また周囲もそれだけで偉い人だと称賛したりするので、そこで進歩が止まってしまうことが多いのです。あげくの果ては、傲慢になり、誇大妄想に陥ったりします。
 こうなるのは、宗教の世界が、スポーツや芸術のように「実践こそが重要」という認識が薄いからだと思います。本来、宗教の世界こそ実践が大切だと思われるのにです。
 宗教の理念を簡単に言えば、ひとつは「愛(慈悲)」であり、もうひとつは「煩悩の超越」だと思いますが、こうしたことを知識ではなく、実践に移さなければ、その人は本当の宗教者、信仰者であるとは言えないわけです。

 しかし、知識があるからすぐに実践に移せるわけではありません。野球の仕方を勉強してもすぐに上手なプレーができるわけでもなく、ピアノの弾き方を頭で習ってもすぐにピアノが弾けるようにならないのと同じです。どのような分野であれ、知識を実践に移すには、練習が不可欠です。プロのスポーツ選手、プロの芸術家は、ものすごい量の練習量をしています。私が元プロレスラーの人から聞いた話だと、彼らは気絶するまで筋トレをするそうです。ピア二ストは、毎日欠かさず一日8時間も10時間もピアノに向かっています。そのために腱鞘炎を起こしてしまうこともあるくらいです。
 このように、練習が必要なのです。ひたすら練習です。プロの練習のすさまじさは半端ではありません。そうして初めて、知識を実践に反映させることができるのです。
 しかし、宗教者はこれほどの練習をしているでしょうか?
 すなわち、愛を実践するための練習、煩悩を超越するための練習をしているでしょうか? 気絶するまで練習しているでしょうか? 一日8時間も10時間も練習しているでしょうか?
 まずしていません。祈ったり、瞑想したり、苦行したり、お経を唱えたりはしているかもしれません。そのようなことが意味のないことだとは言いません。しかし、そうしたことは、スポーツ選手が行っている体力強化訓練、ピアニストが行っているソルフェージュ(楽譜読み)に過ぎません。つまり、基礎訓練に過ぎないのです。本当に技能を磨くには、実際にスポーツをすること、実際にピアノを弾くことなのです。そうした実践的練習の積み重ねによって、実力が磨かれるのです。

 宗教の世界も同じように、実践的練習を積み重ねることによって本物になっていくわけです。実践的練習とは、愛の行為をすることであり、煩悩を超えていくということです。煩悩を超えるとは、欲望や感情に振り回されないということです。怒ったりイライラを野放しにし、低劣な欲望に平気で身を任せるようでは、煩悩を超える実践的練習をしていることにはなりません。怒りを覚えるのは仕方ありませんが、それを意志の支配下において静謐を保とうとする練習、低劣な欲望の誘惑に抵抗しようとする練習が必要なのです。
 そして何よりも、愛の行為です。電車のなかでお年寄りや体の不自由な人が立っていたら席を譲る、道に迷っている人がいたら声をかけてあげる、悲しみに沈む人がいたら優しい言葉をかけてあげる、約束の時間には相手を待たせないように少し早めに行く、たとえわずかな金額でも福祉施設に寄付をする……、こうしたことは小さいことかもしれませんが、立派な愛の実践的練習です。こうした「小さいこと」が、実は重要なのです。そういう練習の積み重ねによって、本当の宗教者になっていくのです。
 繰り返しますが、練習なくして本物にはなりません。ひたすら練習、練習、練習。練習あるのみです。真の宗教者かそうでないかは、知識だとか、説教が上手だとか、そういうことではないのです。その生き方が、宗教の理念を体現しているか、ただそれだけによって決まるのです。練習なくしてどうして本物となれるでしょうか?

 しかし、頭でっかちの人は、練習が苦手です。また、見栄っ張りの人も練習が苦手です。なぜなら、「練習」がうまくできないと、プライドが傷つく怖れがあるからです。練習をせず、ただ口先だけ立派なことを言っているだけなら、至らない自分を突きつけられることもありませんから、幻想の中にいることができます。「私はこんな立派なことを語ることができる。私はなんて意識レベルが高いのだろう、なんと信仰深いのだろう、なんと偉大なのだろう」と、自分に酔っていたいのです。しかし、そういう宗教者は、いってみれば「張り子の寅」のようなものです。宗教者とは呼べません。せいぜい学者であるというだけです。
 実際、練習は甘くないです。スケート選手など、それこそ何回も何回も何回も転倒し、みっともない姿をさらします。失敗の連続、プライドがつぶされることの連続、自己嫌悪の連続です。しかし、そうしたことを乗り越えていく人こそが真のプロであり、真の宗教者なのです。

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