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 2017年8月の独想録


 8月25日 臨死体験と超能力
 前回は、霊界は脳が作り出した幻想の可能性があるという説明をしました。
 ところが、脳の幻想では説明できないような現象があるのです。
 たとえば臨死体験などで、生まれつき目の見えない人が手術中に臨死状態になり、魂が肉体から離脱して天井あたりに浮遊し、その手術の様子を眺めていたという報告があります。後にその人から手術の様子を尋ねると、細部にわたって一致していたというのです。
 また、同じく臨死状態になったある患者は、魂になって窓から外に飛び出しました。そのとき病院のベランダに靴の片方が落ちているのを見ました。それはベランダを上から見なければわからない場所に落ちていたのです。その患者はもちろん、そのような高さからベランダを見たことがありません。そして実際、その患者が言った通り、片方の靴が見つかりました。
 さらに、こういう話もあります。臨死状態で魂が離脱し、遠くの友達のところに行って、その時間に友達が何をしていたのか目撃し、臨死状態から覚めた後で確かめたところ、まさにその友達は目撃した様子と同じことをしていたのでした。

 以上のような出来事は、単に脳の幻想では説明ができないように思われます。魂のようなものが肉体から飛び出したとしか考えられないように思われます。
 これについて、私はこう考えています。
 まず、人間にはテレパシーや透視などの超感覚能力(ESP)が備わっているということです。私は霊的な世界については懐疑的ですが、超能力の存在は肯定しています。なぜなら、数々の実験によって疑いようのない事実として証明されているからです。
 たとえば、この世界の先駆者であるJ・B・ライン博士は、厳密な実験を何回も繰り返し、テレパシーの存在を統計的に証明しました。
 今でも、プリンストン大学など、世界に名だたる大学のなかに超能力の研究室がたくさんあります。かつてソ連が大規模な国家予算を投入して超能力の研究をしていたことは有名です。
 私も一時期、超能力は本当に存在するのか集中的に研究したことがありますが、これは確かに存在します。間違いのない事実です。
 霊的な事柄を論じる上で、私が注目している超能力は、テレパシーと遠隔透視とサイコメトリーです。
 テレパシーはご存知のように、言葉を通さず思念だけで情報を伝達する能力です。遠隔透視(リモート・ビューイング)は、遠くで生じている出来事を、映画のように見ることができる能力です。
 サイコメトリーとは、過去に起こった出来事を読み取る能力のことです。ときどき「超能力捜査官」と呼ばれる人が、未解決の事件を解決するというテレビ番組が放映されていますが、彼らが持っている能力がサイコメトリーです。犯罪が行われた光景を、まるで映画を見ているかのように脳裏に映し出すことができるのです。そうして、犯人の人相だとか、どのように犯罪が行われたかといったことを言い当てるのです。
 もちろん、こうした能力は百%当たるわけではありません。はずれることも多いのですが、それでも驚くような結果を出しています。実際、今から30年以上前、有名なサイコメトリー能力者が日本のテレビ局の招きで来日し、行方不明になっていた女の子の場所を特定して見つけました(貯水池に死んで浮いていた)。当時、この番組は大きな話題となりました。人の生死にかかわることなので、やらせではないでしょう。
 このサイコメトリーが何を意味しているかというと、この世界で生じた出来事の情報は、消滅せずにどこかに記録されているということです。言い換えれば、過去の出来事はすべて記録されているのです。その記録された情報にアクセスするのがサイコメトリーということになります。このことは、霊的な事柄を検証する上で重要なことなので、頭の中に入れておいてください。

 さて、このように、人間には、テレパシー、遠隔透視、サイコメトリーといった超能力が備わっているのですが、冒頭で紹介した臨死体験も、これら超能力の働きとして説明できます。すなわち、目の不自由な人が手術の様子を見たのも、遠く離れた友達の様子を見たのも、ベランダの靴を見たのも、遠隔透視で説明ができます。
 また、その他、たとえば霊界で言葉の通じない外国人と会話を交わすという体験はテレパシーで説明できますし、霊界で過去の状態を知るのはサイコメトリーで説明ができます。
 問題は、そのような超能力は、いわゆる魂と呼ばれているものに備わっているのか、それとも、脳に備わっているのか、ということになります。
 もし魂に備わっているのだとすると、霊界は存在する可能性が高くなってきます。しかし、脳に備わっているとすると、霊界が存在する可能性は低くなってきます。霊界を持ち出す必要はなくなるからです。
 スピリチュアルを信じる人は、以上のような超能力的な現象があるから、霊的なものは存在するのだと主張します。私も長い間、そう考えていました。脳はコンピューターのような機械であり、物質であって、それゆえに時空を超えるような能力は備わっていない。時空を超えられるのは魂だけである。だから、霊的なものは存在するのだと。
 ところが、最近の科学研究により、脳そのものに超能力の機能が存在している可能性が出てきたのです。
 もしそうだとすると、霊界という場所は、脳が超能力によって知られざる情報を感知し、その情報を織り込んで幻想を作り出したものだと解釈できます。それが幽体離脱の正体ということになります。魂が肉体から離脱して遠く離れた友人の会話を見聞したという体験も、遠隔透視の超能力が作用しただけで、実際に魂が肉体から離脱したのではないのです。そのような幻想を見て、そこに感知した情報が織り込まれたということです。その情報が客観的な事実として一致しているので、あたかも魂が離脱して見聞してきたかのように思えますが、そうではないということです。
 では、本当に、脳には超能力の機能が備わっているのでしょうか?
 次回は、その点について説明したいと思います。



 8月14日 霊界は存在するか?
 霊界の存在を否定している宗教は、おそらくないと思います。霊界が存在しないということは、この世界は物質的な地上世界だけであり、死後の魂が存在する場所がないことを意味します。ということは、魂も存在しないことになり、これでは宗教というものが成立しないでしょう。
 したがって、もし霊界の存在が否定されたとしたら、宗教やスピリチュアルというものを根幹から否定することになるかもしれません。
 では、実際のところ、霊界というものは、果たして存在するのでしょうか?
 私はきわめて疑わしいと考えているのです。
 次に、その理由を説明してみたいと思います。

 ほとんどの宗教は霊界の存在を説いています。比較的シンプルなのは、霊界には天国(極楽)と地獄があり、その中間があるといったものです。 「幽界・霊界・神界」といったように分類している人もいれば、神智学などでは、さらに多層的なものとして解説されています。
 もし霊界というものが存在するなら、なぜ人によって、このように見解が異なるのでしょうか?
 仮に、神智学でいうような多層的な構造をしているとしたら、なぜどの人も同じようにそれを見ないのでしょうか?
 これについては、霊界を観察した人の能力の限界があるという可能性もあります。たとえば、この地上でも、視力が弱ければあまりよく見えませんし、視力がよければ、詳しいことも見えます。
 それと同じように、霊的な能力も、人によって違いがあることは十分に考えられますから、それが理由なのかもしれません。
 もしも、能力に差がないとしたら、見る人によって霊界の構造が違うというのは、誰か一人だけが真実を説いているか、あるいは、すべて真実ではないかのいずれかになるでしょう。
 これについては、今の時点ではわからないので、とりあえず、霊的な能力の違いによって、霊界の構造に関して違う見解があるのだとしておきます。

 ところで、霊界をはじめ、生まれ変わりだとかカルマの法則といった、霊的な事柄に関する情報が送られてくるソースは、およそ次の4つあると言えると思います。
1.霊能者が幽体離脱して霊界の様子を見聞して報告された情報
2.チャネリングを通して霊界の住民から教えてもらった情報
3.臨死体験を通して得られた情報
4.退行催眠を通して得られた情報

 1の代表的な人物は、スウェーデンボルグ、出口王仁三郎、ロバート・モンローなどがあげられるでしょう。2は、『霊の書』『シルバーバーチの霊訓』といったものが古典として知られています。その他、最近のスピリチュアルを含めるとたくさんあります。3も4も、その種の本がたくさん出ています。
 こうした本を読みますと、ほぼ共通したことが言われています。ここではとりあえず、臨死体験をとりあげて話を進めてみます。

 臨死体験は、重篤な事故や病気などで、魂(幽体)が一時的に肉体から離脱し、天井付近に浮揚したり、その後、霊界に行ってその様子を見たりする体験です。そして、天国らしき美しい情景が目の前に広がり、そこに行こうとするのですが、「あなたはまだこちらに来る時期ではない」といった声が聞こえたりして、気がつくと肉体に戻っていた、といったパターンがたいてい共通しています。
 さて、ここで、目の前に天国のような美しい情景が広がり、そこへ行くためには、日本の場合、川が見えるという報告があります。いわゆる彼岸と此岸の間にある「三途の川」です。どうも、向こう側に行ってしまうと本当に死んで肉体には戻ってこれないようなのです。
 こうした霊界の光景を見た臨死体験者は、それがあまりにも生々しくリアリティがあったと語ります。夢のような、ぼや〜としたものではなく、この地上世界と変わらないほどはっきりとした現実感があったというのです。ですから、体験者のほとんどは、霊界は存在すると確信するに至ります。

 しかし私は、それでも霊界は幻想で存在しない可能性が高いと考えます。
 それは以下の理由からです。
 霊界の様子は、その人が生きてきた文化を色濃く反映しています。日本人の臨死体験者は彼岸と此岸の間に川を見ることが多いのですが、西洋人の臨死体験者の報告には、川はほとんど出てきません。それはおそらく、私たち日本人は「三途の川」があると聞かされてきたからではないかと思います。
 また、霊界には建物が見える場合があるのですが、日本人の臨死体験者は日本的な家が建っているのが見え、西洋人の臨死体験者は、西洋的な家が建っているのが見えるのです。
 私は以前、実際に臨死体験をした人から直接、話を聞いたことがあります。その人は結婚して日本に長く住んでいる台湾人の女性でしたが、病気で死にかけて、霊界に行きました。そして、目の前には、巨大なチューリップが咲き乱れる美しい光景が見え、その前には川があり、橋がかけられていたといいます。
 私は「巨大なチューリップ」というのを初めて聞いたので詳しい説明を求めると、その女性が言うには、巨大なチューリップは「蓮の花」にも似ていたと言います。
 おそらく、彼女にとって「花」というとチューリップが思い浮かぶのだと思います。そして極楽には「蓮の花」があると、仏教が盛んな国では言われています。ですから、チューリップと蓮の花とが融合されて「巨大なチューリップ」というものを見たのではないかと思うのです。ちなみに、西洋人の臨死体験者で「蓮の花」を見た人は、私が調べた限りではいません。
 また、この台湾女性によれば、川にかけられた橋は赤い色をしており、竜の模様が刻まれていたとのことです。つまり、中国風のデザインがされてあったということです。
 その後、この女性は、背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、気づいたら病院のベッドで意識が戻ったということです。
 この女性も言っていましたが、この体験は夢のようなぼんやりしたものではなく、現実世界とまったく変わらないほどリアルであったということです。彼女は霊界は存在すると自信に満ちた調子で主張していました。

 さて、以上、お気づきになったと思いますが、臨死体験による霊界の様子は、その人が生きてきた文化の影響を受けているということです。このことは、彼らの見た霊界が、自分が作り出した幻影の可能性が高いことを示しています。
 なぜなら、もし、霊界という場所が客観的な世界だとすれば、東洋人だろうと西洋人だろうと、生まれ育った文化に関係なく、同じ光景を目にするはずだからです。
 しかし、そうではありません。その人の記憶にあったものが、外的な世界に投影されて現前しているのです。これは、どんなにそれが鮮明でも、基本的に夢と変わりません。
 ある世界が存在すると言えるには、その世界は他の人と共有されている必要があります。たとえば、私とあなたが同じ場所に行けば、同じデザインの建物や景色を見るはずです。もし見るものが違うとしたら、その世界は客観的に存在するとは言えません。
 さきほど紹介した台湾の女性に、フランス人の友達がいたとしたら、死後、そのフランス人と会うことはないはずです。なぜなら、そのフランス人は、巨大なチューリップや中華模様の赤い橋などは見ないだろうからです。おそらく、フランスにある建物のデザインをしたものを見るでしょうし、フランスの田園地帯に咲き誇る花を見るでしょう。

 ところが、死後、外国人の友達と会うという経験をしている臨死体験の報告もあるわけです。たとえば、日本的な家屋が建ち、日本的な田舎の光景のなかで、アメリカ人の友人と会ったりするわけです。
 しかし、アメリカ人は、アメリカ的な光景を見るはずです。
 つまり、どういうことかと言うと、そのアメリカ人も、結局は自分が作り出した幻影だということです。本当にそのアメリカ人と会ったわけではないのです。
 こう考えると、少なくとも臨死体験者が語る霊界は、存在していない可能性が高くなります。結局、それは脳の働きによる幻想だということになります。脳は、幻想を非常にリアルに感じられる機能を持っているようです。統合失調症の人は、非常にリアルな幻覚を見るようです。それがあまりにもリアルなので幻想だと気づかないのです。脳には、このように、幻想をリアルな感覚として見る働きが備わっているのです。
 そのために、臨死体験者は、自分の見た幻想を真実だと錯覚し、霊界は存在すると思い込んだのではないかと思います。このことは基本的に、霊能者が霊界の様子を見たということにも当てはまると思います。霊能者はただ幻想を見ただけなのです。退行催眠で霊界を見たという証言も、おそらく幻想です。
 まとめると、霊界という場所が客観的に存在するのであれば、すべての人が同じ光景を見るはずです。しかし、生まれ育った文化の違いで霊界の様子も異なるということは、霊界は客観的な存在ではないことになり、客観的な存在でなければ主観的な存在、つまり個人の意識が投影された幻想ということになるのです。
 そして、生まれ育った文化の記憶は脳に蓄えられているので、要するに霊界とは、脳が生み出した幻想の可能性が強くなってきます。

 ところが、次のようなケースがあります。
 ある人が、臨死体験の最中、霊界で幼い頃に行方不明になっていた人と会う経験をしました。その人も臨死体験か何かの原因で、生きていながら霊界に参入していたようです。時がたっていたので立派な大人に成長していました。その姿の特徴をはっきりと覚えていたといいます。その後、しばらくして、その人と地上で会うことができたのですが、その姿は、臨死体験(霊界)で目撃した姿そのままだったと言います。
 これが事実だとすると、霊界は脳が作り出した幻想だと片付けることはできないようにも思えてきます。
 しかし、それでもなお、霊界は幻想であり、実在していないと考えられるのです。
 次回は、この点について説明してみたいと思います。


 8月4日 霊界や生まれ変わりは果たして存在するのか?
 これから、「霊界と生まれ変わりの真実」という新たなテーマで、この問題について論じていきたいと思います。すなわち、霊界だとか生まれ変わり、また、カルマの法則というような、宗教やスピリチュアルの教えの屋台骨ともなっている考え方が、果たして真実なのかどうかを考えていきたいと思うのです。
 ただ、結論はもう出ています。
 それは、「わからない」です。霊界や生まれ変わりが存在するという主張もあれば、存在しないという主張もあります。私はそのどちらにも耳を傾けてきました。しかし、両者とも説得力がありません。確実に存在するという証拠も、存在しないという証拠もないからです。今後、そうしたものが存在する(あるいは存在しない)ことを、科学的な客観性と実証性をもって証明される日が来るかもしれませんが、それまでは「わからない」とするのが、もっとも妥当な見解ではないかと思います。

 では、いったい何のために、このようなテーマを論じていくのかという理由ですが、わからないものをわかっているかのように思い込んでしまう、人間心理の問題点を指摘したいためです。宗教やスピリチュアルを信奉する人は存在すると信じ込んでいます。そうしたものを存在しないと主張する人たち(科学者と呼ばれる人が多いですが)は、存在しないと信じています。両者とも「信じている」という点で問題があるのです。
 客観的でしっかりしたデータに基づいて論理的に思考した上で、何かの存在を認めたり認めなかったりするのが科学的な方法であり、科学者の役目だと思うのですが、霊的なことを否定する科学者たちは、ろくに研究もせず、自分たちの科学観に合わないという理由だけで頭から否定しています。これは科学的な態度ではありません。わからないものを肯定するのも否定するのも、ともに「盲信」です。盲信していたら、科学の進歩は望めません。
 たとえば、電波が発見されていなかった時代、電波で遠く離れた人どうしが会話できると主張した発明家を、周囲の人は頭がおかしいと言って精神病院に連れていこうとしたというエピソードがあります。あるいは、二十世紀初頭に発見された量子の存在は、これまでの物理学の常識を根底から覆すものでした。もし今までの考え方ではありえないから存在しないのだとしたならば、私たちは今日、携帯電話など持っていなかったでしょうし、量子物理学といった分野も生まれていなかったでしょう。「盲信」は、科学の発展を妨げるのです。
 もしかしたら、霊的な世界は存在するかもしれません。それが科学的に証明されたら、人類は新たな文明の進歩を踏み出すことになります。

 ところが、このように主張すると、科学者たちは、「存在するという証拠がなければ、存在しないと決めてよいのだ。存在しない証拠を見つける必要はない」と言ったりします。
 私はそうは思いません。たとえば、むかし、この空間には「エーテル」と呼ばれる未知の物質が充満していると考えられていました。光はそのエーテルを媒体として伝わると考えられていたのです。多くの科学者がエーテルを発見しようと必死にがんばっていました。ところが、マイケルソンとモーリーという二人の科学者が、エーテルは存在しないことを実験によって証明しました。そうして科学者たちは、エーテルという存在しないものを追いかける無駄な努力から解放されたのです。
 同じように、霊界だとか生まれ変わりといったものが、存在しない(とすればですが)ことが科学的に証明されていないから、つまり、あいまいでわからないままだから、そうしたことを信じている人がたくさんいるわけです。また、そうしたものを商売にしている人たちがたくさんいて、おかしな宗教やカルトが社会に害悪を撒き散らしているわけです。
 もしも科学的に存在しないと実証されれば、そうした弊害はなくなり、私たち人類は盲信からひとつ目覚めることができます。そうして、新たな可能性の段階に向けて進んでいけるわけです。ですから、「存在しないことを証明する」という試みは大切なのです。

 もちろん、ここでは、存在する証拠も、存在しない証拠も提示することはできません。ただ、霊的な事柄を盲信している人に対して、「そうしたものは存在しない可能性がありますよ」ということを伝えていきたいと思っています。否定ではなく、疑わしいと言いたいのです。
 そうして、そのようなあいまいなことに依存しない、新たな生き方を求めていくべきだと思っているのです。それこそが、おそらくは人類の意識進化の次の段階だと思うからです。
 けれども、こうした記事はあまり人気がないと思います。
 というのは、人間は結局、信じたいものを信じる、という特性があるからです。「わからないもの」は正直に「わからない」とするべきなのに、それを根拠なく信じたり、あるいは否定したりするのは、信じたいから信じるのであり、否定したいから否定しているに過ぎません。
 そのため、「肯定も否定もできないですよ」と主張することは、どちらの側にとっても、その人たちの「欲求」に水を差すことになります。だから、煙たがられたり、憎まれたり、あるいは無視されたりするのではないかと思います。たとえるなら、甘美な夢を見て眠っているのに、たたき起こすようなものだからです。
 キリスト教を信じている人は、キリスト教が真実だから信じているわけではなく、キリスト教を信じたいから信じているのです。仏教も、その他の宗教も同じです。何らかの面で自分の欲求を満たしてくれそうだと感じたから信じたのです。そして、その後で「この宗教は真実だ」などと、あれこれ理屈づけを考えていき、自分の信じる宗教は真実なのだと一生懸命に自分を説得しようとするのです。悪く言えば、自分で自分を洗脳しようとするのです。
 霊界も、生まれ変わりも、カルマの法則も同じです。そうしたものが存在したらいいという期待や欲求があるから、信じるようになったのです。信じると、ますます真実のように思えてきます。それは錯覚なのですが、錯覚とは気づかないのです。洗脳だからです。
 もちろん、これは私の考えです。私の考えが真実かどうかもまた、わかりません。

 人は自分の信じているものを否定されると怒ったり不安を覚えます。感情的に乱されます。それは自分の欲求が否定されたからです。それはアキレス腱(弱点)です。弱点を攻められるのは脅威なので、自分の教えを否定する人や疑う人を避けたり、あるいは攻撃したりするのです。
 そのように、避けたり攻撃したりするような状態では、とても意識レベルが高いとは言えないでしょう。人類に戦争がなくならない原因もそこにあるのだと思います。
 これが「信じること」の弱点であり弊害です。
 あえて、信じることの恩恵を言えば、精神安定剤を服用したときのように、一時的に不安を和らげてくれることです。それはそれでまったく意義がないとは言いませんが、それには依存性(それがないと苦しくなる)があり、副作用(不安を麻痺させるだけでなく、人生で大切なその他の感覚も麻痺させてしまうなど)があります。
 したがって、精神安定剤が「治療薬」ではないのと同じように、信じること、すなわち信仰は、根本的な救いにはならないのです。救われたような錯覚を起こさせるだけです。総合的に考えれば、依存性や副作用の弊害の方が大きいと思います。
しかし「わからないのだ」ということを受け入れることのできる意識であれば、怒りも不安も生じません。争いも起きません。もともと何にも依存していないので、依存性も生じなければ副作用も生じません。薬に依存している限り健康とは言えないように、信仰という精神安定剤の服用をやめない限り、私たちが真に健康になることはないと思います。松葉杖をついている限り、歩くことはできません。それどころか、ますます筋力が衰えて歩けなくなってしまいます。
 「良薬は口に苦し」と言いますが、いい気分にさせてくれる精神安定剤のような信仰よりも、苦味を与えてくれる考え方の方が、人を覚醒させ、本当の救いをもたらしてくれる可能性があると思っています。
 何ものにも依存しない意識こそが、これからの時代に向けてめざしていくべき方向だと思うのです。それが真の意味での「霊性の進化」ではないでしょうか。


*次回から、本題に入っていきます。まずは「霊界は妄想であり存在しない(可能性がある)」という点について、そう考える根拠を紹介しながら説明していきたいと思います。
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