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2017年12月の独想録
12月23日 クリスマスによせて
今年もクリスマスがやってきます。クリスマスは、本来はクリスチャンがイエスを偲び、彼の教えを再確認する日であると思うのですが、今では単なるお祭りに過ぎなくなりました。
クリスマスの日に寄せて、私が聖書の言葉の中でもっとも好きな、また、もっともイエスの教えを表していると思う言葉を、以下に抜粋してお贈りします(英語版の聖書から私が訳したものです)。
コリント人への手紙 第1−13章
たとえ、私が人の言葉、天使の言葉で話したとしても、
愛がなければ、
やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ、私が預言の才能を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、
山をも動かすほどの信仰を持っていたとしても、
愛がなければ、
何の価値もありません。
たとえ、すべての財産を貧しい人たちに分け与え、
自分のからだを焼かれるために捧げたとしても、
愛がなければ、
何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。
妬むことをせず、自慢せず、高ぶりません。
礼儀に反することをせず、利己的にならず、怒らず、
人のあやまちを記憶にとどめません。
不正を喜ばず、真理を喜びます。
愛は決してあきらめず、その信念と希望と忍耐は決して色あせません。
愛は永遠です。
預言は一時的なものであり、異言ならばやみ、知識ならばすたれます。
なぜなら、私たちの知識も預言も一部分だからです。
完全なものが現われたら、部分的なものは消え去ります。
私が子供であったときには、子供らしく話し、子供らしく感じ、子供らしく考えました。しかし大人になった今、子供らしい生き方は失われてしまいました。
今、私たちは鏡に映して見るようにぼんやり見ていますが、その時には、顔と顔を向き合わせて見るでしょう。
私の知るところは、今は一部分にすぎません。しかしその時には、私が完全に知られているように、私も完全に知ることになるでしょう。
このように、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。
その中でも一番偉大なものは、愛です。
※信仰と希望と愛がキリスト教ではもっとも重要視されていますが、この三つのなかで「愛」が一番偉大だと言っています。信仰よりも、愛の方が偉大だと言っているのです。
12月11日 自殺した人の死後
スピリチュアルの教えでは、自殺した人は死後、自殺した罪を償うために、暗く寂しい場所にひとり取り残され、非常に長いあいだ苦しみ続ける、といったことを主張しています。チャネリングだとか霊能者によって多少の違いはありますが、死後は苦しまなければならないというのです。
しかし、これまで考察してきたように、魂だとか霊界だとか、カルマの法則といったものが存在するかどうか、非常に怪しいことを考えれば、自殺した人は死後に苦しむという主張には、何の根拠もなく、信憑性がかなり低いと言わざるを得ません。
なぜ自殺が悪いかという大きな理由は、スピリチュアルの教えによれば、地上人生の目的は魂を成長させることなのに、自殺によってその時間を短縮させ、成長の機会を自ら奪うからだといいます。たとえるなら、学校を早退したようなものだというわけです。
しかし、自殺といっても、その動機はさまざまです。カルマの法則では、動機がよければ罪にはならないとされます。あるいは、戦争など仕方がない状況での殺人は罪にならないとされます。要するに、動機や状況によって判断がわかれるのです。
ところが、自殺の場合は、私の知る限り、動機や状況が考慮されているという主張を聞いたことがありません。自殺した人はすべて死後に苦しむと言っています。
これはおかしなことです。
カルマの法則がさまざまな事情によってその結果が異なるというのなら、自殺もそう扱うべきです。たとえば、ブラック企業で過労となり、そのためにうつ病を発症して自殺した人は、どうなのでしょうか。誰でも脳がやられれば自殺衝動が高まります。つまり、こうした場合の自殺というのは、自殺というよりはむしろ「病死」なのです。病気で自殺した人も、死後に罰せられて苦しむのでしょうか? なぜ、真面目にさんざん苦しんで仕事をして、そのために脳がやられ、死んだ後になっても、さらに苦しみを与えられなければならないのでしょうか? むしろ、自殺した人より、自殺に追い込んだブラック企業の社長の方が、死後に苦しむべきだと思うのですが、そのようなことを言っている霊能者やスピリチュアリストには会ったことがありません。
霊能者が、自殺した人の死後を霊視し、その人が苦しんでいる姿を目撃するというのは、自殺した人の生前が世界に記録されていて、その情報を読み取り、それにイメージがくわえられて、あたかも自殺した魂が苦しんでいるというビジョン(幻想)を見ているに過ぎないと私は考えます。霊能者と呼ばれる人は、過去の情報を読み取っているに過ぎないのです。自殺した人は、常識的に考えても、そうとう苦悩していたに違いありません。その苦悩の情報を読み取っているので、今も死後で苦悩しているのだと錯覚しているのです。
もし、地上人生という学校に滞在する時間を短縮させる自殺が罪であるというのなら、不健康な生活をして寿命を縮めている人も同罪ということになるはずです。たとえば、タバコを1本吸うと15分寿命が縮まるといわれています。仮に、タバコを吸わなかったら80歳まで生きられた人が、タバコを吸ったために60歳で死んだとしたら、この人は60歳で自殺したのと同じです。
もちろん、タバコは寿命を縮めるということを知らないで吸ったのであれば、それはある種の過失であるから、自殺と同じとは言えないでしょうが、寿命を縮めるとわかっていて吸い続けたのであれば、それは自殺しているのと同じです。つまり、喫煙というのは「慢性的な自殺行為」なのです。
ところが、今日ではタバコは寿命を縮めることがあきらかにわかっていますが、タバコを吸って寿命を縮めている人が、死後に苦しむなどという話は聞いたことがありません。
霊界の高級霊というのは、地上の人間よりはるかに叡智に満ちているとスピリチュアルでは説かれています。であるなら、タバコが寿命を縮めるものであることは、むかしからわかっているはずです。寿命を縮める、つまり、この世での成長の機会を奪うものは罪であるということなのですから、タバコを吸うことは、そうとう罪となるはずです。
しかし、タバコの害を訴えているスピリチュアル・メッセージなど、聞いたことがありません。それどこから、ヘビースモーカーのスピリチュアリストさえいます。
結局、霊的な世界からのメッセージなどというものはなく、その情報源はこの世界にあるということなのだと思います。
このように見てくると、スピリチュアルの教えというものは、けっこういい加減であることがわかるのです。高級霊のメッセージなどと言われるものも、「よいことをしなさい、愛しなさい」といった、陳腐な道徳とそれほど変わらないことばかり言っています。霊界の様子といったことも、SF作家くらいの想像力があれば、簡単に書けるような内容ばかりです。
もし霊的真理というものが本当に存在して偉大であるなら、時代を先取りした斬新な教え、たとえば高度な科学や医学の理論といったものを、すでにむかしから教示されているはずです。しかし、そうしたものは一切ありません(エドガーケイシーは具体的な治療法を教示しましたが、それは民間療法レベルを超えていませんので、その当時の情報源から仕入れた可能性があります)。どうにでもごまかしができる、あいまいで、誰もが想像力で作り出せるようなことしか言っていないのです。
にもかかわらず、「これは霊界の高級霊によるものだ」と言われると、何となくありがたくてすごいものだと錯覚してしまうのです。ある種の権威主義です。仮に、チャネリングやスピリチュアル・メッセージを、精神病院の患者が書いたものだと言われて読んだならば、おそらくここまで支持はされなかったでしょう。内容は同じなのに、「霊界の高級霊」といった言葉で惑わされてしまうのです。
自殺というのも、キリスト教では自殺は罪と教えられていたり、そもそも死というものが本能的に忌み嫌われているので、「自殺は悪である」という価値観に私たちの脳は染まっており、そのために、自殺した人の死後は苦しむという幻想を見るのではないかと、私は考えています。
何を信じようと個人の自由であると思いますが、あたかも自分の信じていることが真実であるかのごとく、「自殺した人の死後は苦しむ」と主張している人たちがいることは、困ったことだと思っています。彼らは、それで自殺する人を減らそうと思っているのかもしれませんが、本当に自殺するくらい悩んでいる人は、死後に苦しむと言われたくらいでは自殺はやめません。かえって精神的に追い込まれ、自殺を加速させてしまう危険もあります。本当に苦しいときは、とにかく今の苦しみから解放されることしか考えられないのです。死後にもっと苦しむと言われたくらいで、「それならやめよう」などと思える人は、まだ本当に苦しんではいないということです。その程度の苦しみなら、スピリチュアルなど持ち出さなくても、他にもっとよい支援の手段があります。
世の中には、子供を自殺で失った親がいます。たとえば、いじめを受けて苦しみぬいた末に自殺してしまった子供などです。そんな親の気持ちになってみるべきです。さんざんいじめで苦しんで、さらにそのうえあの世でも暗く寂しいところでひとりぼっち、非常に長い間苦しんでいるなどと思ったら、その親の胸は張り裂けんばかりの苦悩に突き落とされるでしょう。スピリチュアルの教えを盲信している人たちは、そのことがわかっていません。もしわかって言っているのなら、スピリチュアルでもっとも大切に思われている「愛」が欠けています。つまり、スピリチュアルなど何も実践していないのです。
もちろん、いかに辛くても、それが真実であるならば、認めなければなりません。しかし、スピリチュアルの教えは真実であると証明されたわけではなく、それどころか、かなり怪しいものであることは、すでに見てきたとおりです。スピリチュアルといっても、要するにひとつの「信仰」に過ぎません。
その個人的な信仰を、脅すような内容で人に押し付けることは、スピハラ(スピリチュアル・ハラスメント)です。愛を重んじるスピリチュアリストのすることではありません。「自殺した人は死後に苦しむ」などと、ある種の英雄気取りで声高に主張している人たちは、スピリチュアリストではなく、スピリチュアルの仮面をかぶった、単なる宗教的エゴイストたちです。
では、自殺した人の死後はどうなるのでしょうか?
もちろん、それはわかりません。しかし、仮に自殺が悪だとしても、悪を矯正するものは罰や苦しみではなく、「教育」です。悪というものは、根源的には無知から生ずるものだからです。ですから、「自殺した人はその罪を受けて苦しむ」などという主張は、まったく幼稚であり、時代遅れの未開な考え方なのです。知恵のかけらもありません。おそらく、古い時代の教育方針に染まった心が、そのような幻想を作り上げたのでしょう。
仮に死後の生といったものがあるとしても、自殺で死のうと、その他の原因で死のうと、その後の状態はまったく同じだと、私は考えています。善悪といったものは、人間が勝手に作り上げた幻想だからです。宇宙には善も悪もありません。宇宙的な見地からすれば、自殺とは、ただ単に、自分で自分の肉体の機能を止めた、というだけです。それ以上でも、それ以下でもありません。
2017年12月の独想録
12月23日 クリスマスによせて
今年もクリスマスがやってきます。クリスマスは、本来はクリスチャンがイエスを偲び、彼の教えを再確認する日であると思うのですが、今では単なるお祭りに過ぎなくなりました。
クリスマスの日に寄せて、私が聖書の言葉の中でもっとも好きな、また、もっともイエスの教えを表していると思う言葉を、以下に抜粋してお贈りします(英語版の聖書から私が訳したものです)。
コリント人への手紙 第1−13章
たとえ、私が人の言葉、天使の言葉で話したとしても、
愛がなければ、
やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ、私が預言の才能を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、
山をも動かすほどの信仰を持っていたとしても、
愛がなければ、
何の価値もありません。
たとえ、すべての財産を貧しい人たちに分け与え、
自分のからだを焼かれるために捧げたとしても、
愛がなければ、
何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。
妬むことをせず、自慢せず、高ぶりません。
礼儀に反することをせず、利己的にならず、怒らず、
人のあやまちを記憶にとどめません。
不正を喜ばず、真理を喜びます。
愛は決してあきらめず、その信念と希望と忍耐は決して色あせません。
愛は永遠です。
預言は一時的なものであり、異言ならばやみ、知識ならばすたれます。
なぜなら、私たちの知識も預言も一部分だからです。
完全なものが現われたら、部分的なものは消え去ります。
私が子供であったときには、子供らしく話し、子供らしく感じ、子供らしく考えました。しかし大人になった今、子供らしい生き方は失われてしまいました。
今、私たちは鏡に映して見るようにぼんやり見ていますが、その時には、顔と顔を向き合わせて見るでしょう。
私の知るところは、今は一部分にすぎません。しかしその時には、私が完全に知られているように、私も完全に知ることになるでしょう。
このように、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。
その中でも一番偉大なものは、愛です。
※信仰と希望と愛がキリスト教ではもっとも重要視されていますが、この三つのなかで「愛」が一番偉大だと言っています。信仰よりも、愛の方が偉大だと言っているのです。
12月11日 自殺した人の死後
スピリチュアルの教えでは、自殺した人は死後、自殺した罪を償うために、暗く寂しい場所にひとり取り残され、非常に長いあいだ苦しみ続ける、といったことを主張しています。チャネリングだとか霊能者によって多少の違いはありますが、死後は苦しまなければならないというのです。
しかし、これまで考察してきたように、魂だとか霊界だとか、カルマの法則といったものが存在するかどうか、非常に怪しいことを考えれば、自殺した人は死後に苦しむという主張には、何の根拠もなく、信憑性がかなり低いと言わざるを得ません。
なぜ自殺が悪いかという大きな理由は、スピリチュアルの教えによれば、地上人生の目的は魂を成長させることなのに、自殺によってその時間を短縮させ、成長の機会を自ら奪うからだといいます。たとえるなら、学校を早退したようなものだというわけです。
しかし、自殺といっても、その動機はさまざまです。カルマの法則では、動機がよければ罪にはならないとされます。あるいは、戦争など仕方がない状況での殺人は罪にならないとされます。要するに、動機や状況によって判断がわかれるのです。
ところが、自殺の場合は、私の知る限り、動機や状況が考慮されているという主張を聞いたことがありません。自殺した人はすべて死後に苦しむと言っています。
これはおかしなことです。
カルマの法則がさまざまな事情によってその結果が異なるというのなら、自殺もそう扱うべきです。たとえば、ブラック企業で過労となり、そのためにうつ病を発症して自殺した人は、どうなのでしょうか。誰でも脳がやられれば自殺衝動が高まります。つまり、こうした場合の自殺というのは、自殺というよりはむしろ「病死」なのです。病気で自殺した人も、死後に罰せられて苦しむのでしょうか? なぜ、真面目にさんざん苦しんで仕事をして、そのために脳がやられ、死んだ後になっても、さらに苦しみを与えられなければならないのでしょうか? むしろ、自殺した人より、自殺に追い込んだブラック企業の社長の方が、死後に苦しむべきだと思うのですが、そのようなことを言っている霊能者やスピリチュアリストには会ったことがありません。
霊能者が、自殺した人の死後を霊視し、その人が苦しんでいる姿を目撃するというのは、自殺した人の生前が世界に記録されていて、その情報を読み取り、それにイメージがくわえられて、あたかも自殺した魂が苦しんでいるというビジョン(幻想)を見ているに過ぎないと私は考えます。霊能者と呼ばれる人は、過去の情報を読み取っているに過ぎないのです。自殺した人は、常識的に考えても、そうとう苦悩していたに違いありません。その苦悩の情報を読み取っているので、今も死後で苦悩しているのだと錯覚しているのです。
もし、地上人生という学校に滞在する時間を短縮させる自殺が罪であるというのなら、不健康な生活をして寿命を縮めている人も同罪ということになるはずです。たとえば、タバコを1本吸うと15分寿命が縮まるといわれています。仮に、タバコを吸わなかったら80歳まで生きられた人が、タバコを吸ったために60歳で死んだとしたら、この人は60歳で自殺したのと同じです。
もちろん、タバコは寿命を縮めるということを知らないで吸ったのであれば、それはある種の過失であるから、自殺と同じとは言えないでしょうが、寿命を縮めるとわかっていて吸い続けたのであれば、それは自殺しているのと同じです。つまり、喫煙というのは「慢性的な自殺行為」なのです。
ところが、今日ではタバコは寿命を縮めることがあきらかにわかっていますが、タバコを吸って寿命を縮めている人が、死後に苦しむなどという話は聞いたことがありません。
霊界の高級霊というのは、地上の人間よりはるかに叡智に満ちているとスピリチュアルでは説かれています。であるなら、タバコが寿命を縮めるものであることは、むかしからわかっているはずです。寿命を縮める、つまり、この世での成長の機会を奪うものは罪であるということなのですから、タバコを吸うことは、そうとう罪となるはずです。
しかし、タバコの害を訴えているスピリチュアル・メッセージなど、聞いたことがありません。それどこから、ヘビースモーカーのスピリチュアリストさえいます。
結局、霊的な世界からのメッセージなどというものはなく、その情報源はこの世界にあるということなのだと思います。
このように見てくると、スピリチュアルの教えというものは、けっこういい加減であることがわかるのです。高級霊のメッセージなどと言われるものも、「よいことをしなさい、愛しなさい」といった、陳腐な道徳とそれほど変わらないことばかり言っています。霊界の様子といったことも、SF作家くらいの想像力があれば、簡単に書けるような内容ばかりです。
もし霊的真理というものが本当に存在して偉大であるなら、時代を先取りした斬新な教え、たとえば高度な科学や医学の理論といったものを、すでにむかしから教示されているはずです。しかし、そうしたものは一切ありません(エドガーケイシーは具体的な治療法を教示しましたが、それは民間療法レベルを超えていませんので、その当時の情報源から仕入れた可能性があります)。どうにでもごまかしができる、あいまいで、誰もが想像力で作り出せるようなことしか言っていないのです。
にもかかわらず、「これは霊界の高級霊によるものだ」と言われると、何となくありがたくてすごいものだと錯覚してしまうのです。ある種の権威主義です。仮に、チャネリングやスピリチュアル・メッセージを、精神病院の患者が書いたものだと言われて読んだならば、おそらくここまで支持はされなかったでしょう。内容は同じなのに、「霊界の高級霊」といった言葉で惑わされてしまうのです。
自殺というのも、キリスト教では自殺は罪と教えられていたり、そもそも死というものが本能的に忌み嫌われているので、「自殺は悪である」という価値観に私たちの脳は染まっており、そのために、自殺した人の死後は苦しむという幻想を見るのではないかと、私は考えています。
何を信じようと個人の自由であると思いますが、あたかも自分の信じていることが真実であるかのごとく、「自殺した人の死後は苦しむ」と主張している人たちがいることは、困ったことだと思っています。彼らは、それで自殺する人を減らそうと思っているのかもしれませんが、本当に自殺するくらい悩んでいる人は、死後に苦しむと言われたくらいでは自殺はやめません。かえって精神的に追い込まれ、自殺を加速させてしまう危険もあります。本当に苦しいときは、とにかく今の苦しみから解放されることしか考えられないのです。死後にもっと苦しむと言われたくらいで、「それならやめよう」などと思える人は、まだ本当に苦しんではいないということです。その程度の苦しみなら、スピリチュアルなど持ち出さなくても、他にもっとよい支援の手段があります。
世の中には、子供を自殺で失った親がいます。たとえば、いじめを受けて苦しみぬいた末に自殺してしまった子供などです。そんな親の気持ちになってみるべきです。さんざんいじめで苦しんで、さらにそのうえあの世でも暗く寂しいところでひとりぼっち、非常に長い間苦しんでいるなどと思ったら、その親の胸は張り裂けんばかりの苦悩に突き落とされるでしょう。スピリチュアルの教えを盲信している人たちは、そのことがわかっていません。もしわかって言っているのなら、スピリチュアルでもっとも大切に思われている「愛」が欠けています。つまり、スピリチュアルなど何も実践していないのです。
もちろん、いかに辛くても、それが真実であるならば、認めなければなりません。しかし、スピリチュアルの教えは真実であると証明されたわけではなく、それどころか、かなり怪しいものであることは、すでに見てきたとおりです。スピリチュアルといっても、要するにひとつの「信仰」に過ぎません。
その個人的な信仰を、脅すような内容で人に押し付けることは、スピハラ(スピリチュアル・ハラスメント)です。愛を重んじるスピリチュアリストのすることではありません。「自殺した人は死後に苦しむ」などと、ある種の英雄気取りで声高に主張している人たちは、スピリチュアリストではなく、スピリチュアルの仮面をかぶった、単なる宗教的エゴイストたちです。
では、自殺した人の死後はどうなるのでしょうか?
もちろん、それはわかりません。しかし、仮に自殺が悪だとしても、悪を矯正するものは罰や苦しみではなく、「教育」です。悪というものは、根源的には無知から生ずるものだからです。ですから、「自殺した人はその罪を受けて苦しむ」などという主張は、まったく幼稚であり、時代遅れの未開な考え方なのです。知恵のかけらもありません。おそらく、古い時代の教育方針に染まった心が、そのような幻想を作り上げたのでしょう。
仮に死後の生といったものがあるとしても、自殺で死のうと、その他の原因で死のうと、その後の状態はまったく同じだと、私は考えています。善悪といったものは、人間が勝手に作り上げた幻想だからです。宇宙には善も悪もありません。宇宙的な見地からすれば、自殺とは、ただ単に、自分で自分の肉体の機能を止めた、というだけです。それ以上でも、それ以下でもありません。