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 2017年11月の独想録



 11月25日 宗教やスピリチュアルは「足場」のようなもの
 これまで、霊界や生まれ変わり、カルマの法則といった、宗教やスピリチュアルの中核的な教えについて、そうしたものは存在しない可能性があることを説明してきました。
 くどいようですが、否定しているわけではありません。否定する根拠も肯定する根拠もないことを申し上げてきただけです。

 しかし、霊的なことを学ぶこと自体は、最初の段階では有意義であると思っています。それにより、とりあえず人生の生きる方向性の骨格というものを形成できるからです。神や霊界といった、地上レベルを越えたところに価値観を見出せば、地上の瑣末な出来事に心を奪われることも少なくなりますし、生まれ変わりやカルマの法則のことを学べば、よい行動をし悪い行動をするのはやめようと思うでしょう。狂信や盲信、排他的独善性といったことさえなければ、宗教やスピリチュアルの教えは人を立派にさせてくれます。

 ですから、私は宗教やスピリチュアルを信じている人と話をするときは、霊的なことが存在するとして話をします。「二枚舌」と言われても仕方がありませんが、私は相手が幸せになれるのなら、それでいいと思っているのです。実際、霊的なことは存在するのかもしれませんし。宗教やスピリチュアルのことをまるで知らない人には、それに関する話をして、とりあえず知識を身につけてもらうことも、必要とあればいたします。

 ただ、ある程度、精神性を向上させたならば、宗教やスピリチュアルの教義といったものは、さらなる精神性の邪魔になるのではないかと考えています。
 なぜなら、真の宗教性や霊性というものは、教義といった知的レベルの領域から発するものではなく、もっと深い意識レベルから発するものだと思うからです。「教義がこう言っているからこうしよう」というのでは、ホンモノではないと思うのです。宇宙の法則や天の摂理と完全一体になったとき、それは知性や知識といったものによらない、ありのままの生き方であるはずです。親鸞の言葉を借りれば「自然法爾(じねんほうに)」ということになるでしょうか。この自然法爾こそ、宗教性や霊性がめざすべきものだと思います。このとき、いかなる束縛からも自由になっているはずです。宗教やスピリチュアルの教えからも自由になっているはずです。

 つまり、宗教やスピリチュアルの教義にとらわれていると、自然法爾の妨げになってしまうと思うのです。宗教やスピリチュアルさえも、「束縛」になるということです。最終的に宗教やスピリチュアルさえも捨てたとき、逆説的ですが、宗教やスピリチュアルのゴールに達するのではないかと考えています。
 そして、そのゴールに達したときには、霊界があろうとなかろうと、生まれ変わりやカルマの法則があろうとなかろうと、どうでもよくなるのだと思います。
 たとえるなら、宗教やスピリチュアルというものは、建築の「足場」のようなものです。家を建てるには、まず足場を構築しなければなりません。しかし、家が建ったら、足場は不必要であるばかりか、邪魔になります。あくまでも宗教やスピリチュアルは、その最終的なゴールへと向かうための足場のようなものであると、私は考えます。
 ですから、私はこれからも、あるときは「足場」を構築し、あるときは「足場」を破壊するようなことを、申し上げていきたいと思っています。矛盾したことを申し上げていると思われるかもしれませんが、その真意は、以上述べた理由からです。
 自他が幸せになり、世界が平和になりさえすれば、宗教やスピリチュアルの教義など、どうだっていいことではないかと、私は思っているのです。



 11月18日 カルマの法則は本当にあるのか(3)
 カルマの法則を信じていれば、「善いことをすればよい報いがあるだろう」と期待して、善いことをしようとする人もいるでしょうし、「悪いことをすれば悪い報いがあるだろう」と思って、悪いことはしないようにする人もいるでしょう。その意味では、カルマの法則を信じていた方が、人々の道徳心が高まって世の中がよくなっていくのかもしれません。
 しかし、このことは逆に言えば、「よい報いがなければ善いことはしない」、「悪い報いがなければ悪いことをしてもよい」ということになります。
 法律的なレベルではこれでいいでしょう。実際、法律というものは信賞必罰によって社会の治安を維持しようとしているからです。
 しかし、宗教のレベルでは、これでいいのでしょうか?
「よい報いがあろうとなかろうと善いことをする」というのが、宗教のあり方ではないでしょうか。さもなければ、「お金がもらえるから善いことをする」というのと本質的に変わりません。要するに、報酬目的であり取引ということになりますから、そのような行為は「善い行為」とはいえないはずです。単なるビジネスです。人に親切にしても、報酬をもらえばそれは親切ではなくなり仕事になるのと同じことです。
 カルマの法則では「動機が大切である」と言われます。悪いことをしても悪い動機によって為されたものでなければ、悪い行為にはならないので、悪い報いはこないと主張しています。
 ならば、報酬めあてに善いことをするという行為は、あきらかに動機が不純です。カネの亡者がカネのために必死に働くのと本質的には同じことで、決して道徳的倫理的に「善い行為」とは定義されません。
 ということは、「よい報いがあるから善いことをしよう」としても、善い行為にはならないことになります。
 したがって、この時点でカルマの法則の教えが破綻しているのです。
 つまり、「よい報いがあるから善いことをしなさい」と説いても、そのような動機は不純であるがゆえに、それは「善いこと」にはならないので、よい報いは訪れないことになります。

 それとも、たとえ動機はよくなくても「善い行為」であれば、よい報いがもたらされるのでしょうか? 動機というものは関係ないのでしょうか。
 仮にそうだとすると、「悪い行為」の場合、それがどんなによい動機であっても、悪い報いが訪れることになってしまいます(相手のためによかれと思ってした行為が結果的に相手を損ねてしまったような場合など)。そうなると「勧善懲悪」をめざすはずのカルマの法則の意義が、やはり破綻してしまうことになるのです。
 このように考えても、カルマの法則というものは本当にあるのか、とても怪しく思えてしまうのです。

 「悪い報いがあるから悪いことをしない」という教えは、確かに悪いことをさせない効果はあるでしょうが、これもしょせんは「取引」であることに変わりはなく、精神性の高さはありません。宗教は精神性を高めることが目的なはずですから、「悪い報いがあろうとなかろうと、悪いことはしない」、「よい報いがあろうとなかろうと、善いことをする」というところを目標にするべきではないかと思うのです。「そんなことはお綺麗ごとだ」と言う人がいるかもしれませんが、宗教における目標というのは、理想を目指しているわけですから、本質的に「お綺麗ごと」なのです。目標が「お綺麗ごと」でなければ、それは宗教的な目標にはなり得ません。要は、いかにその理想的な目標に少しでも近づいていくか、ということです。
 その意味では、宗教の世界においては、取引である「カルマの法則」というものは、そぐわないのです。取引というのは交換条件であり、その発想で生きている限り、「愛」が芽生えることはありません。なぜなら、愛とは無条件だからです。宗教が愛を目指さないとしたら、それはもはや宗教とは言えないのではないでしょうか。
 カルマの法則の教えは、取引の発想ですから、それに縛られている限り、愛の発現を妨げてしまうことになるのです。ですから、カルマの法則を信じることは、必ずしもよいことであるとは、私には思えないのです。


 11月11日 カルマの法則は本当にあるのか?(2)
 
カルマの法則(因果応報の法則)という考え方は、どのように生まれたのでしょうか?
 高度な霊的能力を獲得した覚者や霊能力者によって、カルマの法則があることを発見したのでしょうか?
 仮にそうだとすると、すでに見たように、霊的な世界というものは、基本的に自分の想念が投影された世界です。平たく言えば、自分の想念を見ているのです。要するに幻想なのですが、非常にリアルに見えるので、自分の想念が作り出した幻想であることに気づかず、真実であるかのように勘違いしてしまうのであると、私は考えています。いかに偉大な覚者や霊能者であっても、肉体をもっている限り、完全ではありません。彼らの目撃したものや見解も、絶対に正しいとは言えないのです。 「善いことをしたらよい報いが、悪いことをしたら悪い報いを受けるべきだ」という気持ちがあれば、その思いが投影されて、やはりそのような仕組みの存在を目撃することになるでしょう。

 確かに、私たちはこうしたいわゆる「勧善懲悪」の考え方が、とても腑に落ちるというか、共感します。誰もがそうあるべきだと思うでしょう。
 しかし、現実はどうでしょうか。人を苦しめる悪人がその報いを受けることもなく恵まれた一生を終える場合もありますし、人を助けることに努力を惜しまない善人が不幸や不運に見舞われて一生を終えることもあります。
 私たちは、このようなことを目の当たりにすると、悔しさや憤り、不条理な思いにかられて不愉快な気持ちになります。まして、自分自身が誰かに不当に虐げられた場合、そのひどい相手はいつかその悪業の報いを受けるべきだ、いや、必ず受けるに違いないという、強い怨念を伴った期待感を抱くものです。
 それなのに、その報いを受けて苦しむことなく一生を終えてしまったら、腹の虫がおさまりません。この不条理な出来事を受け入れることができません。そこで、何か腹の虫がおさまるような理屈を考え出すのです。  それが「来世」です。来世という検証不能なものを持ち出し、「来世でその悪業の報いを受けて苦しむのだ」と思い込むことで、腹の虫をおさめようとするのです。不条理という不愉快な現象を解消しようとするわけです。霊能者はその強い思いを外部に投影して「カルマの法則」というものを見るのではないかと考えられます。

 また、現世での不幸の原因も「過去生」の悪業のせいにします。
 私たちは、意味のない苦しみには我慢できない性質を持っています。意味があれば、苦しみに耐えられる気がするのです。そのために、さまざまな意味づけをするわけです。たとえば、「これは神が与えた試練だ」といった具合です。そして、カルマの法則では、「これは過去生で犯した悪業の報いである」とし、「その悪業の報いを受けることで悪のカルマが浄化されて幸せになっていくのだ」となるわけです。そのような意味づけをすることで苦しみを受け入れ、耐えていこうとします。
 あるいは、次のような場合も考えられます。
 それは、非常に悲惨な不幸に見舞われている人を見たときの恐怖心によるものです。
 身の毛もよだつような不幸に見舞われている人を見たとき、私たちは「自分もああなるかもしれない」という恐怖心を抱きます。しかしそんなことは自分には起こって欲しくありません。そのために、その不幸な人と自分とは違うのだという理屈を見つけようとするのです。しかし、そのような明白な理屈は見つかるはずがありません。そこで、はやり検証不能な領域にその理屈を探すのです。それが「過去生」です。過去生で悪いことをした報いであるとか、何か悪いことをした天罰だとか呪いといったものを持ち出し、自分はそんな悪いことはしていないはずだから大丈夫だと安心しようとするわけです。
 らい病という、肉体が変形してしまう病気に罹った人たちのことを、むかしはそのように見なして、あからさまに差別してきました。過去に何か悪いことをしたから、あのような悲惨なからだになるんだと蔑まれ、嫌悪され、隔離されてきたのです。そのために、どれほど筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたことでしょうか。

 しかし、カルマの法則を本気で信じている人からすれば、らい病患者は過去生で悪いことをしたせいであると言うはずです。
 あるいは、イエス・キリストなどは、迫害されて十字架で殺されましたが、これもカルマの法則によれば過去生で悪いことをした結果だということになるでしょう。
 では、解脱してカルマをすべて清算したはずの釈迦はどうでしょうか?
 言い伝えによれば、釈迦はデーバダッタという、釈迦の名声を嫉妬した人物から嫌がらせを受けたとされますし、最期は毒キノコを食べて苦しんで死にました(少なくとも肉体的には)。もし解脱して過去の悪業を清算したのだったら、このような苦痛を味わうことはないはずです。カルマの法則を信じているのであれば、釈迦も過去の悪しきカルマのせいで苦しんだことになるでしょう。
 しかし、イエスや釈迦の苦難をカルマの法則によって過去の悪業の報いだと言う人には会ったことがありません。それなのに、らい病患者や、不幸や苦しみにある人に対しては、「ああなったのは過去の悪業の報いだ」などと言うのです。これはおかしなことです。仏教ではカルマの法則を信じています。ならば、釈迦の災難も過去の悪業の結果であるとするのが当然かと思いますが、そんなことは口にしないのです。

 また、過去の悪業(カルマ)は、苦しむことによって解消されるとされています。
 だとすると、苦しんでいる人はカルマを解消しているのだから、苦しむのがよいことになってしまいます。苦しんでいる人を助けることは、カルマの解消の邪魔をすることになるので、助けてはいけないことになります。病気で苦しんでいる人を助けるべきではなく、薬を飲んで治そうとするべきではないということになるでしょう。苦しんでカルマが解消されるという理屈が真実なら、病気は何もしなくても、苦しんでいれば自然に治るということになります。苦しんでいる人を助けなくても、その人は苦しんでいれば自然に助かることになります。むしろ、助けることは、カルマの解消を邪魔するという「悪しきカルマ」を積むことになるでしょうから、助けることは悪いことだという理屈になってしまいます。
 これはあきらかにおかしなことです。
 「いや、カルマが解消されたから助けられたのだ」と言う人がいるかもしれませんが、それはあとづけ講釈といいますか、結果論に過ぎません。助けられればすべてカルマが解消したことになるわけで、それならば、わざわざカルマの法則などを持ち出して、苦しめばカルマは解消されるなどと言う必要性はなくなります。苦しんでいる人はすべて助けてあげればいいからです。

 以上のように見ていくと、カルマの法則というものは、あいまいというか、かなりいい加減な考え方だということがわかってくるのです。
 人生というものは、もちろん、自らの悪業が招いた報いとしての不幸というものはあるでしょうが、過去生だとか、そういう得体の知れない領域を持ち出して現在の不幸や苦しみの原因にすることには、無理があるのです。  どんなに立派な人であっても、覚者や聖者であっても、不可抗力的に不幸や災難に遭うときは遭うのです。それは過去のカルマの報いでもなければ、本人が悪いせいでもなく、「引き寄せの法則」などといったものでもないのです。過去に悪いことをしていなくても、心の中に不幸を呼び寄せる思いがなくても、不幸災難というものは、訪れるときは訪れるものなのです。
 もちろん、真実はわかりません。カルマの法則はあるのかもしれません。しかし、それはわからないのです。わからないのに、それをあると信じるのは、「信仰」であるとも言えるかもしれませんが、「迷信」であるとも言えるわけです。
 私の個人的な思いを言わせていただければ、カルマの法則などというものを信じて、不幸や苦しみにある人にムチを浴びせるようなマネはすべきではないと思っています。

 「しかし、カルマの法則を信じていれば、人は善いことをしようとするだろうし、悪いことはしないようにするだろう。だから、カルマの法則を信じることはよいことである」
 このように言う人がいるかもしれません。
 次回は、この点について考えてみたいと思います。



 11月3日 カルマの法則は本当にあるのか?(1)
 魂や生まれ変わりを論じるときに、切っても切れない教えが「カルマの法則」です。
 カルマとはもともとインドの言葉で「行為」を意味しますが、今日、カルマというときは、「過去に犯した悪い行為の因縁」、「不幸の種」といった意味で使われているようです。ひらたくいえば、カルマの法則とは「因果応報の法則」ということです。すなわち、善い行為をすれば幸せな運命が、悪い行為をすれば不幸な運命が訪れるという思想です。
 
 カルマの法則というものは、本当に存在するのでしょうか?
 もし存在するとしたら、大前提として、この世に善と悪というものが存在していなければなりません。そして、何が善で何が悪であるかということを、完璧に判定できる何らかの知性的な働きが必要不可欠です。
 では、この世に善と悪というものは、果たして存在するのでしょうか?
 「この世」という定義を「人間社会」とすれば、確かに善悪は存在しますが、それは人間が作り出した価値基準です。しかし人間は完全ではないので、その善悪の価値基準も完全とはいえません。実際、善悪の基準は、その社会や文化によって異なりますし、時代によっても異なり、状況によっても異なります。たとえば殺人は悪とされますが、戦争では殺すことが善となります。
 あるいは、家族を飢えから守るために食べ物を盗むという行為は、善なのでしょうか? それとも悪なのでしょうか?
 盗む行為は悪でしょうが、家族を飢え死にさせるのも悪です。もし盗み以外にどうしても他の方法がない場合、盗んで家族を救うのが善なのか、盗まないで家族を飢え死にさせることが善なのか、いったいどちらが善だと判断できるでしょうか?
 世の中の善悪というものは、そう簡単に判断できるわけではないのです。
 すると「いや、動機が大切なのだ」という人もいます。動機さえよければ、何をしても悪にはならないのでしょうか? ならば、テロリストたちは、彼らなりに「善い事」をしているはずです。テロは悪ではないのでしょうか?
 このように、善悪というものは不完全な人間が作り出したもので、しかもその判定基準はかなりあいまいです。極論を言えば、善悪というものは単なる幻想です。
 この宇宙には、善悪というものはないのです。ただ現象だけが存在しているだけです。たとえば、地球に隕石がぶつかって人類の半分が死んでしまう事態が起きたとしても、それは善悪の問題ではありません。ただそういう現象が生じたという、それ以上でも以下でもないのです。宇宙的な視野から見れば、人間が勝手に「これは善、これは悪」と決めつけているに過ぎません。
 カルマの法則というものは、前世や来世といった、地上世界を超えた領域まで作用しているということですから、人間が作り出したものではなく、宇宙的な法則のようなものなのでしょう。しかし、いま述べたように、宇宙には善悪というものは存在しないのですから、カルマの法則というものも存在しないことになるのではないでしょうか。

 仮に、カルマの法則というものが、「作用・反作用」といった物理的な因果律であるとしても、うまく説明できません。たとえば、「人を殺せば人から殺される」という因果律であるなら、その最初はどうなるのか、という問題があります。たとえば、AがBに殺された場合、Aは前世でBを殺していたことになります。その前の前世ではBはAを殺したことになります。そのようにして前世をさかのぼっていくと、いったい誰が最初に殺したのかという疑問が生じてきます。仮にどちらかだとしたら、その人が相手を殺した因果律をどう説明するのでしょうか。つまり、カルマの法則では説明できなくなってしまいます。

 視点を変えて言うと、たとえば、私が誰かを殺したとします。これは悪業を犯したことになり、いつかその報いを受けなければならない(カルマを解消しなければならない)ことになりますが、もし前世で相手が私を殺していたとするなら、今回、私が相手を殺したのは、相手にとってはカルマの解消ということになります。すると、今回の私の殺人は、悪いカルマとはならないのでしょうか? 借金にたとえるなら、相手から借金を返してもらったのであって、私が新たに借金をしたことにはならないからです。
 つまり、私たちは何らかの行為が、新たな借金を作る行為なのか、それとも、相手から借金を返してもらう行為なのか、わからないことになります。もし前者ならその悪業の報いは受けるでしょうが、後者なら悪いことをしても報いを受けないことになってしまいます。誰かに善意を施しても、それが前世で相手から施された善意への「恩返し」であるとしたら、善行為をしても幸運が訪れることはないわけです。
 これでは、カルマの法則はまったく当てにならないものとなります。

 ところで、カルマの法則は、人間だけに当てはまるのでしょうか? 動物には当てはまらないのでしょうか?
 「動物は本能で生きているので、カルマの法則はない」と言うかもしれません。では、虐待されてひどい苦しみを味わって殺されている犬猫と、優しい主人に飼われて苦しみなく一生を終える犬猫の違いというのは、どう説明するのでしょうか?
 犬猫クラスになると、それなりの苦しみも喜びも感じるはずです。ある犬猫は苦しみを味わい、ある犬猫は喜びを味わって死んでいく、これが単なる偶然だとするなら、不公平だといわざるを得ません。
 では、動物にもカルマの法則があるとしたら、虐待された犬猫は前世で人間を虐待したことになります。しかし、そのようなことは考えられません。
 ある人は「動物は群魂だから、個体は関係ない」と言います。しかしこれは説明になっていません。群魂とはひとつの魂を複数の個体が共有していることを言いますが、どう見ても苦しんでいる動物と苦しんでいない動物がいます。郡魂をも持ち出しても、不公平な感じは否めません。
 私は、動物と人間との間に、それほど大きな本質的差異があるようには思えません。ただ他の動物より前頭葉が発達しているというだけです。それなのに、動物にはカルマの法則はなく、人間にはあるとするなら、いったい何の根拠をもって動物と人間との間に明確な線引きをしたのかという疑問が生じてくるのです。
 動物には、おそらく善悪の判断能力はないと思います。ゾウなどは仲間を救う行為をすることがありますが、それは善とか悪といった考えからではなく、本能的な仲間意識のようなものから来ていると思われます。
 つまり、動物の世界に善悪はないのです。動物は「悪い行為」をすることも「善い行為」をすることもありません。本能にしたがって生きているだけです。それなのに、苦しむ個体と苦しまない個体がいるというのは、どうもすっきりしません。
 こう考えても、カルマの法則というものが、かなりあいまいなものに思えてくるのです。

 また、カルマの法則が、「悪いことをした行為を反省させる」という目的があるのだとしたら、その報いは来世などより現世で生じた方がずっと効果的です。
 現世であれば、「この苦しみは過去のあの悪業の報いなのだな」と反省してあらためることもできますが、記憶がない来世で報いを受けたとしても、いったい何の行為に対する報いなのかわからず、反省のしようがありません。
 なのになぜ、悪業の報いが来世にまで持ち越されてしまうのでしょうか? 反省を促すという目的があるなら、これは合理的なやり方ではありません。

 以上のように、因果応報を説くカルマの法則は、一見すると合理的で、ありえそうにも思われるのですが、よく考察してみると、いろいろな矛盾や不合理的なところがあり、素直にその存在を信じることができなくなってくるのです。
 では、カルマの法則などという考え方は、どこから生まれてきたのでしょうか?(続く)。
 

 

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