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vol.22


田村奈津子詩集 虹を飲む日

1996年あざみ書房刊 \1500 注文できます。

<往復詩集>わがまま詩篇 田村奈津子詩集『虹を飲む日』(1996年あざみ書房刊)より

文化鍋に月を入れて彩られた夜(エッセイ「イルカの微笑み」)冬の旅見えない風景愛しの六十二分青い水(エッセイ「死者の言葉」)赤い月、赤い耳新しい月、新しい鉄満ちる月、欠けた太陽(エッセイ「思い出したニホン人」)眼差しの森砂漠のバラ(エッセイ「羊の香り」)優しいマグマ黄色い声みどりの指リトアニアの青い空(エッセイ「光に溶けるからだ」)虹を飲む日(エッセイ「オレンジ色の場所」) 


文化鍋に月を入れて………November23 1994
  
やがて月が満ちる
K画伯に呼び出されて
夜の階段を スキップでかけおりると
底には 本当にミロがいて
文化鍋で「兜蟹」を煮込んでいる
月にうろうろ カニ族の勘が横ばいする
浮世の泡をつなぐ 偶然の一冊
センセイ 西江先生 西荻の街で
またお目にかかれるなんて 思ってもみませんでした
いろいろな動物になることを 試みてこられたセンセイが
ミロの友達だったなんて
犬猫が皮を 無意味に切り取られる時代には
何を食べればいいのかよくわかりません
文学部181教室から いま
センセイの渇いた大きな笑い声が甦ってきました
ニホンの言葉が異境に別れていく
そんな時代は 先生の耳が端麗です
  
ミロの瞳に月が満ちて
今宵眠れない人に 朗報が浸透する
あなたの感情は 正しい波動だった
実は センセイ
わたくしの この十年は 蜃気楼のようでしたよ
あぶくなんて ちっとも たたなかったのです そう はじめっから
太いくせにすかすかの骨を
栄養失調でめまいしたカラダで煮込んでも
おいしい鍋などできるはずもなく
未開でよかった
わたくしの あたま
ラクダでよかった
わたくしの せなか
あの頃聞いた センセイの文化人類学の授業だけが
瘤のなかの 脂肪で
ほら いま 焼酎が溶かしはじめているのです
らんぷの光に 灯油の匂い漂い
ミナカタクマグス全集に 『東京のラクダ』*走り
あなたの鍋は そろそろ あぶくたった 煮え立った?


*『東京のラクダ』(1994)―西江雅之著
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tubu<詩>彩られた夜(田村奈津子)
<詩>「植物地誌」ダイズ(関富士子)
<詩>音の梯子(関富士子)


  彩られた夜………November 29 1994
新宿ピットイン『CLUB LEO』に陶酔するJに

レナードが 和太鼓を一打ちする
からだは出し抜けに目を覚まし
背骨を思い出す 足が動き始める
  
麻衣さんが 母音を発声する
細胞は門を解き放ち
歌に乗った魂が からだから抜けていく
  
板橋さんは 音と戯れているから
澄ました旋律は 今日は不在だ
それでも感情を撫でられたくて
誰もが 子音を待ち焦がれている
  
その夜 何が起こるのか
誰も予測がつかなかった
その夜 何が起こったか
やがてわかる日が来るはずだ
  
右の頭皮が 痺れている
木枯らしの顔が 火照っている
言葉は どこかへ消えてしまった
ただ ビールがおいしい
そんな かんたんな夜に
太鼓は天地を揺るがす
声は深海からあふれだす
ピアノは星界を受信する
  
わたしたちは 今夜
解体されて 光の中ではじけている
わたしたちは 今夜
細胞を からだのなかで泡立たせている


*太鼓ーレナード衛藤、ボーカル−山根麻衣、ピアノ−板橋文夫


イルカの微笑み December 18 1994


 11月29日のピットインでのライブのあとすぐに、山根麻衣さんと、妹さんの栄子さんのお宅で、ゆっくりお話する機会に恵まれた。ライブの話はもちろんのこと、その夜は、鍋を囲んで、それぞれの身の回りで起こっている変化の兆しを報告し合うというおもしろい展開になった。中でも一番興味深かったのは、麻衣さんが今年の9月に下田の海でイルカと泳いだときの話だった。具体的な出来事一つ一つに、心ひかれたわけではなく、映画『グランブルー』のイルカの微笑みを想い浮かべながら聞いていると、体験者の語りを通して、自分もだんだんうれしくなっていくのがわかって感動した。そのうちに妙なことに気がついた。元々彼女がエネルギッシュな歌手であることは事実なのだが、向き合って話していると、頭の右側がピリピリと心地よく振動することに気づいたのである。
 不思議に思い翌日、『ドルフィン・コネクション』という本を読んでみると、イルカに会ってきた人には、イルカの生体電気が流れていて、それが放射されているのだと書かれていた。そんなこととは知らずに、イルカの話に耳を傾けているだけで、何か気持ちの良いものが受け取れるとしたら、素敵なことだ。
 イルカに会った人には、会ってみるべきだ!
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tubu<詩>冬の旅(田村奈津子)
<詩>文化鍋に月を入れて(田村奈津子)

 

冬の旅………December 18 1994   
黄色が去ったばかりの
スカスカと
何かが澄んでいく
空に根をはる
はだかの梢を見上げていたら
今朝の夢をつたって
くるみを抱えた
シマリスがのぼってきた
    
『霧の中の風景』*から
動物の知恵を持つ
子どもが二人現れ
老木とあいさつを交わしている
(アレハ アメノウズメノミコト?
  
からだを響かせ
声をなびかせ
八雲立つ原野で
待ち合わせしたのは
いつのこと?
いくつもの詩を放ち
いく人ものワタシを脱いだら
神話は甦る
どんな闇にも
どんな混沌にも
  
時間が消えた古書店の
棚から落ちてきたのは
『世界は音』**
千年も探し続けていた本だった
柚子色にふくらんだ月の
冴えた光を浴びて
地球のつぼみは
今宵 やっと
ほころび始めたばかりだ


*『霧の中の風景』(1988−テオ・アンゲロプロス監督 **『世界は音』(1986)−J・E・ベーレント著
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tubu<詩>見えない風景(田村奈津子)
彩られた夜(田村奈津子)


  見えない風景………January 17 1995   
わたしの部屋は狭い
白いロフトベッドの下にテレビがあり
今朝からガレキと火災の映像が流れ続けている
さっき遊びにやってきた
ポーランド人の絵描きと
ニホン人の写真家が
無言で新聞に溜め息をおとしたあとで
わたしの書架の本を頼りに
たがいの世界を探り合っている
部屋に浮かんだ雲のようなベッドでは
眠りから異界に入った
霊媒の友人が
突然の死者たちを悼んで寝汗をかいている
宇宙のエネルギーに直に触れた
彼女のからだには断層ができ
内臓がバラバラになって浮遊しているらしい
わたしの国は狭い
一瞬で東と西に分断されてしまった
神戸市東灘区に住んでいる
叔父にはまだ電話がつながらない
曇った頭でキッチンに立ち
満月の晩餐のために
鶏モモ肉を白ゴマと七味で炒めた
  
わたしの惑星は狭くなった はずだが
壁の崩れたベルリンを抜けて
東欧に向かっても
ポーランドの友人の
こわばった記憶にはなかなか辿り着けないだろう
『地下水道』を潜り抜け
灰をかぶったつもりになっても
ズブロッカを流し込んだ凍える瞳に
映った風景は
決して見えはしない
あなたの宇宙に
静かに耳を傾けていたい
何もできない冬に ただそれだけ


<詩>見えない風景 縦組み横スクロール表示へ縦組み縦スクロール表示

tubu<詩>愛しの六十二分(田村奈津子)
<詩>冬の旅(田村奈津子)



愛しの六十二分………February 20 1995   
山羊座の人と
六本木に
映画を観に行った
冬の旅は
東欧から
バルト海を渡り
北欧へ向かう
仏頂面で クール
唐突で マヌケな
二組の男女と一緒に
グループ交際の
六十年代へたどりつく
ここでは はぐれかけた空気が
足踏みミシンで振動している
ロケンロールと
扁平のリーゼントがあって
笑い顔と
色がない
この世界では
消されかけた記憶が
ネッカチーフをかぶる
『愛しのタチアナ』*の
古びたカメラでスクラップされている
拳銃もなく
殺し合いもない
六十二分間は
鎮圧される魂が
追われることもない
アキ・カウリスマキ監督の
左眉の笑いに
からだがほころんでいく
カウリス(山羊)と
フィン語で名付けられた
遅すぎた怪物は
世紀末から断絶しようと
坂道をゆっくり上っていった

*『愛しのタチアナ』(1994)-アキ・カウリスマキ監督
<詩>愛しの六十二分 縦組み横スクロール表示へ縦組み縦スクロール表示

tubu<詩>青い水(田村奈津子)
<詩>見えない風景(田村奈津子)



青い水………March 14 1995   
たくさんのひとが
通り抜けていく
からだのエナジーが
凧のように引っぱられる
風の中で
光の中で
わたしの時間がめくられ
明かされる
星々の道筋
手のひらから
あふれる光で
綾取りして
何を思い出したか
突然の日常がはじまる
風よ吹け
風よ舞え
笛のように わたし
あなたに叫びたい
雲に乗った女が
砂漠に降りてくる
よかったね
今晩は
痛かったね
トランジット
移行する空間に
溺れかけても
飛び込みたいのは
青い水の
誘惑
老人に抱かれた
黒いむく犬が
夢の中で
目を覚ました



死者の言葉  March 14 1995


 ロバート・アルトマンが、レイモンド・カーヴァーの短編小説と詩をもとに映画化した『ショート・カッツ』は、パノラマの真ん中にいるみたいで、とても刺激的だった。恵比寿のビール工場跡地にできた映画館は、ゆったりと快適な座り心地で、人間模様の曼陀羅の中をぐるぐる巡っているような気になった。アルトマンの底力に、年の功という言葉を再確認させられた。
 カーヴァーの作品の中で私が一番好きなのは、詩集『水の出会うところ』に入っている「父のさいふ」という作品だ。父親が死んだあとに残ったさいふにまつわる詩だ。命を失ったそのさいふから葬儀代を支払い、父親は故郷の墓地への最後の最高の旅に出かけるというような詩だった。それを読んだせいかどうかは忘れてしまったが、うちにも父の死後しばらく「父のさいふ」が存在していた。不思議なもので家族の誰かの誕生日近くになると、父親が係わったテキストのわずかな印税が入るという知らせが届いた。空っぽになっていたさいふには、食事に行けるくらいのお金が巡ってきた。「これでなんかうまいもんでも食べてこいや」という父の声が聞こえてくるようで、私はなんだか嬉しかった。勝手な思い込みなのだろうが、死者の意志を感じてしまうことがある。

tubu<詩>赤い月、赤い耳(田村奈津子)
<詩>青い水(田村奈津子)



赤い月、赤い耳………………May 9 1995

よみうりホールにて ティク・ナット・ハンのダルマトークに耳を傾けるJに   
ヴェトナム生まれの詩人で
仏教者の
ティク・ナット・ハンを迎えて
のパンフレットは
赤い薔薇のこだま
彼の瞳は澄んで
耳は空に開かれているので
嗚呼! キレイ ナンテキレイ
と溜め息をつきながら
一枚 また 一枚
もらってきては眺めてしまう
  
半月に
共鳴する鐘の音
静かな言葉を
一枚 また 一枚
からだに染み込ませた
  
耳を傾けなさい
目覚めた人はそう言った
ハングリーゴースト(餓鬼)の
あふれるワタクシタチの国には
聴く人
が少ないので
聴くふりをする人
を見分けられない
目覚めた人は いつも
微笑んでいて
ワタクシタチの国は 今にも
泣き出しそうだ
  
赤い月が 静かな水に映り
赤い耳が 熱く深く広がった


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tubu<詩>新しい月、新しい鉄(田村奈津子)
<詩>青い水(田村奈津子)


新しい月、新しい鉄………july 28 1995

  
七月二十一日
月と冥王星が引きあって
天空に暗号が刻まれた
からだの双六を逆戻り
自分を捜そうとするから
耳から鬼が入ってきた
私は鉄の生まれだ
うたれてうたれて
魂の形を作る
タタラの土地で
蟹座に生まれ
夏の子供と名付けられた
私のなかの炎も
サナギに似ているだろうか
  
新しい月が巡るたびに
記憶がはがれて耳が裸になっていく
たたかれてたたかれて
頑固な夏が育っていく
私は鉄の生まれだ
哲学の男と名付けられた父親は
乙女座に生まれ
タタラの土地へ
移り住んだ
彼の魂が
サナギから蝶になり
彼岸に飛び立ってから
七回目の神在り月が巡ってくる
スサノオの風を呼び込み
遮光器土偶のおんなのように
目を閉じて
耳を開いて
闇と交わりたい
私は鉄の生まれだ
からだの炉で炭を焼き続けるのだ



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tubu<詩>満ちる月、欠けた太陽(田村奈津子)
<詩>赤い月、赤い耳(田村奈津子)


満ちる月、欠けた太陽………August 18 1995

  
もう 帰ろうよ
あんな森は出ようよ 父さん
里に向かって歩く
子供の私が
つないだ右手を揺すっている
待ってやれ
もう少しだけ 一緒にいてやれ
あいつが自我(太陽)で迷っている
そう言って亡父は
ヘマタイト(赤鉄鉱)の咲く
山に戻っていった
そう言われて私は
パイライト(黄鉄鉱)の光る
朝に目を覚ました
  
あいつには
太陽が謎めいている
あいつは
太陽(父)に出会いそこなった
あいつの
太陽が欠けている
満ちていく月が
気を引っぱり 熱を上げ
彼の耳を狂わせた
聴覚がかすんで地図が見えない
真夏に迷う古都で
こうなったら あんた
犬になりなさい
こうなったら 弟よ
維新の道で父を探しなさい
澄んだ空には盆の月
吠えているのかいないのか
眠りこけてた犬(自己)が瞑想する
汗ばむ鼻が嗅ぎ当てたのは
東山、坂本竜馬の墓だった
<詩>満ちる月、欠けた太陽 縦組み横スクロール表示へ縦組み縦スクロール表示



思い出したニホン人  August 18 1995


 八月十六日の朝日新聞に、オウム真理教の都沢和子被告、初公判の記事が載っていた。七年前の「独房」での修行を終え、悟りを得たときの感想だという彼女の言葉もあった。「一番に思ったのは『この世はなんて汚いんだろう』ということです。外に出て、車の中から眺める景色は、鉄やビルがとても冷たい感じでした。食べ物屋が浅ましく見え、スーツを着た人間が異様に見えました。何かひもでその人の体がグルグルと縛られて、解放感がないように感じました。」と。本当に悟りを得ると、もっと風景は優しく見えるようになるんじゃないのかなぁと、私は不思議に思った。読んでいるうちに小学五年生の春の記憶が甦ってきた。西ドイツの小学校から、京都の小学校に戻ったときのことだ。
 世の中が汚いとは思わなかったが、日本の街は無神経な顔をしているように感じられた。教室に足を踏み入れると思春期の入口で自意識過剰な子供たちが、男子と女子に分かれて不自然な様子で座っていた。全員の黒髪に圧倒されてめまいがしそうになった。
 ある日いきなり背中に、金魚鉢の水を入れられた。誰もとがめてはくれなかった。プライドがあったのでいじめられたとは思わなかったが、時折思い出すときのニホン人は、怖くて異様だ。


tubu<詩>眼差しの森(田村奈津子)
<詩>新しい月、新しい鉄(田村奈津子)


眼差しの森………October 31 1995

坂田栄一郎写真展『アマランス』−新宿パークタワーにて   
歌子さんから電話があって
その写真家のドラマチックな
星の巡りが
私の水星につながると
カラダを抜けた想いが もう
新宿の森に舞い込んでいた
北風にまかれて
くじいた足をひきずって
あとから自分を運んでいった
  
二進法の窓とすれ違って
新しいビルの
通路を曲がると
アマランスが香っていた
ねじれた足首は
右と左に分かれる脳に
ストップをかける
あらわれているものは何?
眼差しの触手が
撫でて溶かす関節
  
ユーディ・メニューインの手
ミハイル・ゴルバチョフの額
ネルソン・マンデラの歯
いくつもの肖像から
光の粒子がにじんでいる
空に近い眼差しから
神様がこぼれてくる
  
立ち止まりたい ここで
人間にみつめられる この森で
もつれた神経を大地にほどき
詩の身体を植物に変えて
始まりの種に戻りたい



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tubu<詩>砂漠のバラ(田村奈津子)
<詩>満ちる月、欠けた太陽(田村奈津子)


砂漠のバラ………December 12 1995

  
泳げないひとはしかし
せめて自分のからだの海で
溺れることだけは
避けたいと願い
時折 異常な勢いで発熱する
  
水の太陽
火の月 を
九十度の角度で
かかえた女の
ミクロコスモスでは
火と水が(ひみつ)の戦いを
いや 秘密の和解を取り結ぼうと
砂嵐が 脳を吹き抜けては視床下部を狂わせる
熱風の夢砂漠に
ローズ色の稲妻が走った
氷の屋根裏に住む
オシリスが
天球儀をかかえて落ちてきた
  
泳げないひとはしかし
からだの水が四十度の熱で
蒸発するのがうれしい
まぬけな話ではあるが
埋もれていた土地が
記憶の海から浮上し
とんでもない感情が運ばれてくるからだ
なじみの風景が変わる
オリオンが光る
やがて土地から水がにじむ
砂嵐が去ったあと
蟹座の人体には
石でできたバラが咲いているだろう


羊の香り  December 12 1995


 一九九五年は、自分の意志と無関係に移動せざるを得ないことの多い一年だった。弟が突然ニュージーランドで結婚式を挙げたいと言い出したときもそうだった。「そんな芸能人みたいなことやめてくれよ」とブツブツ文句を言いながらついて行き、結局一番ニュージーランドを好きになって帰ってきたのは、私だった。
 しかし、何がよかったかと問われて熱っぽく語れるような体験は、ほとんどない。天候が悪く、鯨にもイルカにもペンギンにも会えなかった。気の毒に思ってくれたガイドさんが、牧場に羊の赤ちゃんを見に連れていってくれた。だだっぴろい土地に立って、深呼吸をすると、スカッと自分が抜けていくように感じられた。
 ニュージーランドはイギリスに似せて作られた国だから、街並みは小英国という印象だが、空気中の人工密度は、やけに低いように感じられた。イギリスの空間には、目に見えない生き物がたくさん住んでいて、細胞が直に反応してしまうような迫力を感じたことがあったが、歴史が浅い分、ニュージーランドの空間は何だかスカスカしているのである。
 それが頼りなく思われる場合もあるだろうが、私には妙に爽快だった。そのかわりに、隙間を埋めるように、街やホテルは羊の香りで満ちていた。
tubu<詩>優しいマグマ(田村奈津子)
<詩>眼差しの森(田村奈津子)


優しいマグマ………January 1 1996

  
長い間あなたを待っていました
「熱い熱い」と震えながら
この店の片隅で
あなたが気づいてくれるのを
涼しげな水晶にしか
目もくれなかったあなたが
暗黒のわたしを覗き込み
混沌のマグマに
飛び込んでしまう日が
やがて来るだろうと
待ちきれず 火山から
あなたに会いにやってきたのです
今日のあなたは
眼差しが強い
目覚めた細胞があなたに
交信している
優しい影が噴出している
  
あなたは 気づいている
アンテナの髪を伝わって
頭皮がピリピリすることに
あなたは 感じている
指先から二の腕にむかって
電気が走っていることを
  
球になったわたしを手に取って
耳を傾けてください
浮き上がった緑の同心円は
笑われたあなたの記憶です
もう何も 恐れないで
黒曜石(わたし)は
冥界の痛さを溶かす瞳だから



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tubu<詩>黄色い声(田村奈津子)
<詩>砂漠のバラ(田村奈津子)


黄色い声………January 31 1996

  
石毛拓郎の名前には
石が二つも鎮座している
石を割って聞こうとしている
  
センセイ イシゲ先生
今日 突然
学校と縁が切りたくなった
石の言葉で割れそうになった
そんな僕は
どこへ行けばいい?
とりあえず
二日 学校を拒否する
そのあと
石のように暗い僕は
どこへ転がればいい?
  
 闇い脳も 光り
 デクノボーもひとつの青い照明
 あの人が言った言葉が 光り
  
黄色い声が欲しい 僕
の名を呼ぶ 声
に めま
いがす る 僕
は 頭のな
かで 走り続け る
  
桜が散る頃
僕は僕を助ける
教室には戻らない
でも センセイ 憶えていて
学校と別れても
カラダとは別れない
僕は光り 闇い石の僕は
声に包まれた光り



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tubu<詩>みどりの指(田村奈津子)
<詩>優しいマグマ(田村奈津子)


みどりの指………February 22 1996

  
純情なきみを
のぼせあがらせた
あいまいな言葉
影のない楽観主義を
もう信じてはいけない
きみが教室を出るというのなら
わたしの地下壕
ホロスコープ*第十二室
無意識の部屋から
大逆転のウラヌス(天王星)
「伝統破りの星」をなんとか
引きずり出す覚悟をするだけだ
  
一九九六年一月十二日
水瓶座に天王星が移動した
わたしがわたしの
泣き虫の子供をくぐり抜け
魚座の記憶を破壊する
新しい風を呼吸して
戸惑うきみを夢に溶かし込んだ
  
みえない言葉が
飛び交う街を
アトピーの膚をさらして
きみは漂い続ける
もっと気紛れに
わがままな身体になればいい
嘔吐に変容する言葉を
洗い流す光りを
集めるアンテナは
きみの切り忘れた爪が無防備な
みどりのゆび
その光る指先だけが道標だ

*ホロスコープ‐占星術で使われる星の配置図


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tubu<詩>リトアニアの青い空(田村奈津子)
<詩>黄色い声(田村奈津子)


リトアニアの青い空………March 14 1996

   停電の夜に
  
オレンジの香りを溶かす
ロウソクの炎にあぶられて
この浅い闇から
やってくるのは 誰?
二時間四十五分の穴に
耳を澄ます
電気工事の向こうに
耳を澄ます
  
(静かな場所)をおとずれて
それはおもいがけず
モノクロの写真
樹間に吊られたデトロイトの
等身大のぬいぐるみの人形から
リトアニアの青い空へ飛んだ
  
あの瞳 あのうつろな瞳
きみの声変わりスレスレのからだで
うごめいている妖怪はいつか見た
リトアニアの画家
スタシスの作る仮面
木の膚に金魚色の唇
太い鼻と灰色の瞳
見つめられて人間が壊れそうになる
「石」と名付けられたその仮面が
つつましやかに生きる森へ
きみの指ときみの夢を
停電の夜に地下工事でつなぐ
  
トウキョウの闇に棲む妖精に
耳を澄ます
灰色の瞳に満ちるリトアニアに
耳を澄ます
仮面の裏側で連続するドラマに
耳を澄ます

*詩集(静かな場所)(1981)-吉増剛造著
**スタシス(1949)-リトアニア生まれの画家。1976年にポーランドへ移住。
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光に溶けるからだ  March 14 1996


 『境界を超える対話』というテーマで、五月二十四日から五月二十七日まで、南伊豆国民休暇村で行われる「トランスパーソナル学会議」の手伝いをしている。スタッフの編集者に薦められて『ホリスティック・コミュニケーション』(春秋社)という本を読んだ。私は原題の『トランスパーソナル・コミュニケーション』のままのほうがよかったのではと思ったが、興味深い本であることは間違いない。このコミュニケーションの技法を実際に取り入れている学校が、日本にも存在するという事実にも感動した。
 「自分の内部でのコミュニケーション」「対人的なコミュニケーション」「自我を越えたコミュニケーション」の方法を、呼吸、座り方、立ち方、歩き方、リラクセーション、注意の集中、イマジネーションを通して、身につけて言うプログラムが具体的に提示されている。自分でもやってみたいと思うような実習がたくさんある。
 例えばエネルギーだけになること――エネルギー覚醒のふつうの次元を超えて、からだの限界を越えた純粋なエネルギーとして自分自身を体験する。仰向けになり目を閉じて、光の中に溶ける身体をイメージするのだ。地球のすべての生命あるものとつながりを感じ、自分自身を信頼し、直観に従うことが基本の授業は、きっと刺激的だと思う。

tubu<詩>虹を飲む日(田村奈津子)
<詩>みどりの指(田村奈津子)


虹を飲む日………June 12 1996

  
手のひらが抜けている
小さな風が生きている
クチナシの庭を
一緒に歩く人には内緒で
わたしはワタシを
宇宙にハメコンダ
左手は空に右手はぬくもりに
  
(ツナガッタ
  
午睡に落ちた彼は
フラスコに色水を作る
手をかざすと 虹が
いくつもの 虹が
手のひらをくぐって上昇する
呪文に乗って
  
(カケアガル
  
虹をぼくは初めて見たんだ
ゴーグルをはずすといきなり
カクテルになって降ってきた
ブルーハワイの味で
渦巻きながらぼくに入ってきた
丸くなっておなかに
  
(タマッテル
  
からだを巡って大地へ還っていく
眠る母は少女を起こし
クロマティックの河で
「虹の蛇」を釣り上げた
彼女のチャンネルが開いていく
光に合流した魂が
色彩の鳥を羽ばたかせた


オレンジ色の場所  July 22 1996


 『午後のオレンジ』というタイトルの宮迫千鶴さんのコラージュ作品をながめながら、この文章を書いている。「トランスパーソナル学会議」の講演者の一人でいらした宮迫さんのエッセイ集『草と風の癒し』(青土社)は、私が近頃一番気に入っている本だ。
 彼女と私が、お互いの父親をガンで失ったのは七〜八年前のことだ。やっと喪が明けた状態が訪れたと言えるようになった頃に、学会で直接お目にかかり、お話を聞かせていただく機会に恵まれた。タイミングよく、バリ島での体験がモチーフになっているという今年の個展にも間に合った。画廊では、色彩が形になって、リズミカルに浮遊していた。
 宮迫さんのエッセイは、魂の癒しの旅の道中で起こってくるシンクロニシティのエネルギーに、軽やかに乗って書かれているところが、私にはとても魅力的に思われた。そしてそのように書かれた作品は、読者にもその波動を伝え、共時性を起こしてしまう。
 彼女はアイヌのシャーマンに出会い、死から生へ向かう転換点にたどり着かれたのだが、私もまた友人の写真家宇井眞紀子さんを通じてアイヌ民族に触れ、新しい風を感じていたところだった。アイヌの魂に癒された宮迫さんのオレンジ色は、私が生へ向かう転換点だ。

著者紹介・作品一覧(たむらなつこ)
tubu<詩>田村奈津子詩集『地図からこぼれた庭』
<詩>リトアニアの青い空(田村奈津子)
<詩>音の梯子(関富士子)
rain tree homeもくじ最新号もくじ最新号back number vol.1- もくじBack Numberback number21 もくじvol.22ふろく執筆者別もくじ詩人たちWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
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