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                 ホメオパシーの謎を解く(パート3)

 パート3

 当時の医学の主流だった「おぞましい治療法」とは?
 ホメオパシーが地上に産声をあげた年号は、おそらく1796年になるだろう。
 この年、ドイツの医学誌『ヒューフェランヅ・ジャーナル(Hufeland's Journal)』に「薬品の治癒力確認に関する新しい原理と過去の原理の考察」という論文が掲載された。この論文の中で、医療における「新しい創造的な基本原理」が提唱され、それに「ホメオパシー」という名がつけられたのである。
 生みの親は、サミュエル・ハーネマン(Samuel Hahnemann 1755-1843)。医学書専門の翻訳家であった。もともとすぐれた内科医であったが、ある理由のため医師を廃業し、医学の研究や執筆に専念していたのである。
 ところで、ハーネマンがホメオパシーを発表した翌年に、ジェンナーが種痘法を発表している。天然痘の予防にウシの天然痘(ウィルス)が有効であるとする、いわゆる予防接種の誕生である。まさに「似たものが似たものを癒す」とするホメオパシーと共通した発想が、偶然にも同じ時期に発見されて世の中に登場しているのだ。
 しかしながら、ホメオパシーと「予防接種」とは、実は根本的な部分においてまったく反対の立場をとっている。ホメオパシーでは、予防接種は生命力をかき乱す要因となり、健康に寄与するよりも害があるとして警鐘を鳴らしているのだ(後に詳解する)。
 さて、クリスチャン・フリードリッヒ・サミュエル・ハーネマンは、1755年4月10日、ドイツはザクセン地方の小都市マイセンに、6人兄弟の3番目に生まれた。
 父は磁器製造工場の絵付け職人であった。子供の頃から聡明ぶりを発揮し、特に語学の才能(後にはラテン語、ギリシア語、アラビア語、英語、仏語など七カ国語に精通した)に恵まれ、12歳のときには学校の先生から頼まれて他の生徒にギリシア語を教えたという。さらに父親からは、物事を論理的に考えるように訓練が施された。
 20歳で医学の勉強のためライプチッヒに向かい、英語の本をドイツ語に翻訳するアルバイトをしながら、大学で化学と医学を学び、24歳で医師の資格を取得。26歳のとき、7つ年下の薬剤師と出会い結婚している。


サミュエル・ハーネマン
(Samuel Hahnemann 1755-1843)







 そうして、医師として開業するも、ハーネマンは、当時の野蛮な、そして根拠のあいまいな医療を患者に施すことに強い嫌悪感を覚えた。
 当時、ヨーロッパやアメリカで盛んに行われていたのは、瀉血や瀉下であった。
 瀉血とは、病気の原因は腐敗した血が体内に停滞しているためであるとし、汚れた血を出せば治るとして、静脈や動脈を切って出血させたのである。一度に500ccも抜き取ることがあったという。当時、瀉血の権威者として知られたベンジャミン・ラッシュというアメリカ人医師は、ひとりの患者から6週間で3800ccもの血を抜き取っていたと伝えられている。ラッシュは、患者の状態を見て治療法を考える医療に対し、「家にある百もの部屋それぞれに違う鍵をつけ、それを開けるために百もの鍵をジャラジャラいわせているようなものだ」といった。すなわち、いかなる病も瀉血ひとつで治るとしたのである。
 さらに、瀉血と併用して行われていたのが瀉下だった。体内の毒素を排出させる名目で無理やり下痢をさせる瀉下剤には、水銀(塩化第一水銀)が用いられていた。ご存知のように水銀は中毒を引き起こす毒性の強い物質で、中毒の初期にはよだれを流すようになるが、当時はこれが「治療効果の現れ」であると見なされていたのだ。
 こんな調子で、当時の医師の多くが、瀉血で血を奪いながら水銀を投与して患者を苦しめていた。病気そのもので死ぬよりも、この治療法で死んでいった人の方が多いともいわれている。初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンも、その犠牲者の一人であった。
 大統領退任後の1799年、ワシントンは激しい痛みを伴って喉が腫れ、呼吸ができなくなった。事態は急を要し、すぐに1パイント(0.47リットル)の瀉血をし、喉を焼灼した。しかし容体は改善せず、その後も数回にわたって1パイントの瀉血が行われた。同時に瀉下が行われ、水銀による下痢のため深刻な脱水症状となり、ワシントンはその日のうちに死亡してしまったのである。
 1824年に36歳の若さで死んだ詩人のバイロンなども、この治療法の犠牲者だった。彼はこの治療法を嫌悪して拒んでいたが、胸の病が悪化して抵抗できなくなると、医師は無理やり瀉血を施した。バイロンは死に、医師たちは次のようにいったという。
「瀉血をするのが少し遅すぎた……」



当時の瀉血の様子
病気の原因は腐敗した血が体内に停滞しているためであるとし、汚れた血を出せば治るとして、静脈や動脈を切って出血させた。



 
 患者を傷つけるよりも医師の職を放棄したハーネマン
 ハーネマンは、こんな野蛮な治療を施して患者を苦しめることはできないと、医師を廃業したのであった。また、その治療法が医学的根拠が乏しいということも許せなかった。ハーネマンは「道理」を重んじる真の意味での科学者であり、自分自身が納得できないことは断固として実践を拒否するという一徹さをもっていたのだ。
「病人を治さなければならないとき、単なる仮説に過ぎないだけの、いい加減な知識や判断に基づいて薬を処方しなければならなかったことは、私には苦痛だった。これ以上、人を傷つける危険を冒すよりも、化学の研究や著作に専念するために、私は医師の職を放棄した」
 その後は、家族を支えるために細々と医学書の翻訳に精を出し、また化学の研究に専念した。やがて狭い一部屋に5人の子供を抱えるという生活苦に耐えかね、35歳のとき当時の医学の最先端都市であったライプチッヒを離れざるを得なくなった。最初にステュテルリッツという小さな村に移り、2年後にゲオルゲンタールに落ち着くことになる。
 そこで、地元の公爵エルンスト・フォン・ゴタの厚意を受け、精神病院の運営を任せられることになり、生活もいくぶん楽になった。
 当時の精神病院は、病院とは名ばかりの単なる収容所であり、患者たちは不衛生な「牢獄」に幽閉され、非人間的な扱いや虐待を受けていた。それに対してハーネマンは、患者たちを尊敬と慈愛の念をもって世話し、非常によい治療実績をあげたといわれる。
 ところが皮肉にも、そのことが同業者の嫉妬を買い、再びよそに旅立たなくてはならなくなった。いくつかの地を転々とした後、1803年、48歳のときに、トルガウという小さな町に居を構えた。子供の数は増え、51歳の頃には11人の子供がいたという。

 
 ホメオパシーの根本原理を発見する
 こうした遍歴の中で、ある医学書を翻訳していたときのことである。
「マラリアには、キナ皮から抽出した薬が効く」という一説が目にとまった。なぜ効くのかというと「苦い味がするから」といった、あいまいな理由しか書かれていない。
「苦い薬は他にもいくらだってあるではないか!」
 不満を抱いたハーネマンは、自らこの薬を飲んでみた。すると、マラリアと同じような症状が現れた。
「最初に、足と手の指先が冷たくなった。気力がなくなり、眠くなった。次に心臓の動機が始まり、脈拍が強く短くなった。耐え難い不安、震えを感じ、四肢が衰弱した。やがて、頭部に脈動が感じられ、頬が赤らみ、喉が渇き、まもなく、マラリアの間欠熱にみられるすべての症状が次々と現れた」
 ハーネマンは直感した。
「その薬が効くのは、その病気と同じ症状をもたらすからではないのか!」
 そして、仲間の協力を得て実験を繰り返していったところ、確かにこの直感が正しいことが判明したのである。健康な人が、ある病気に効くとされる薬剤を服用すると、その病気と同じような症状が現れたのだ。
 こうして、「似たものは似たものを癒す」という、ホメオパシーの第一原理「類似の法則」が発見されたわけだ。
 この原理の背後にあるのは、「症状とは悪いものではなく、病気を治そうとする生命の働きである」ということだ。すなわち、「症状は病気であり悪いものだ」と思いがちだが、そうではないのだ。症状の多くは、生命の力が病気を治すために起こす「反応」なのである。したがって、症状を薬などで無理に抑圧させてしまうと、病根も治癒されないまま抑圧させてしまい、たとえ表面上は治ったように見えても、やがて姿を変えて、もっと深刻な病気として現れる可能性を残すことになってしまうのだ。
 こうして、ついに自分が納得できる医療「ホメオパシー」を発見したハーネマンは、医師として復活を果たし、臨床に基づきながら精力的に研究を重ねていった。その成果が1796年の医学誌に発表されたことはすでに見た通りだ。



キナの樹








 
 薄めれば薄めるほど効果が強くなる不思議
「類似の法則」によって、ハーネマンは毒性をもつ薬を使って患者を治療していき、それなりの効果をあげた。しかし問題があった。副作用が強く現れてしまうのだ。
 そこで、なるべく薬を薄めて使うようにしたが、同時に治癒効果の方も弱くなってしまうだろうとの懸念もあった。
 ところが、そんな予想に反して、薄めても効果はあまり変わらなかったのである。
 読者にとっても、これは意外だったかもしれない。ところが、最近になって、薄めても薬効はあまり変わらないことが発見されだのだ。
「ホルメシス効果」と呼ばれるこの現象は、生物にとって毒性のある物質でも、希釈することで薬となり、希釈の度合いと効果は必ずしも反比例しないというものだ。もちろん、薄めていけば薬のもつ「化学的な力」は弱くなっていくが、それを生物に投与した際の「治癒的な力」は、必ずしも弱くはならず、ときには強くなることさえあることが判明したのである。
 とはいっても、希釈度合いにも限界があり、非常に薄くしてしまうと治癒効果もなくなってしまう。ハーネマンもまた、なるべく副作用のない薬にしようと薄めていったが、成分がほとんど含まれていない状態にまで薄めてしまうと、やはり薬の効きめもなくなってしまった。
 ところが、こうした試みの最中、信じられないような発見をしたのだ。
 それは、家に保管してある希釈液よりも、患者の家に往診するたびにカバンに入れて持ち歩いていた希釈液の方が、効きめが高いという事実であった。
「なぜ、同じ割合で薄めたものなのに、効き目に差が出てきたのだろうか?」
 ハーネマンは考え、ひとつの仮説を立てた。それは、希釈液を持ち歩いた際の「振動」にあるのではないのかと(一説によれば錬金術の思想からヒントを得たといわれる)。
 この仮説を証明するために、10分の1に希釈するたびに、薬の入った容器を机に叩きつけて激しく震盪(しんとう)し、その希釈液の効果を試してみた。すると、驚くべきことがわかった。
 震盪しながら希釈した薬は、どんなに希釈しても、たとえもとの成分がまったく入っていないほど希釈しても、効きめが変わらないどころか、逆に強くなっていったのだ。しかも、副作用の方は薄めるほど少なくなり、ほとんど皆無になってしまった。
 こうして、ホメオパシーの第二原理ともいうべき「希釈・震盪の法則」が発見されたのである。震盪させながら薄めれば薄めるほど、その薬のもっている潜在的な力(ポテンシーと呼ばれる)が強くなっていく事実を、ハーネマンは目の当たりにした。
 そして、百倍に薄める作業を30回繰り返して作った希釈液を作った。今日、われわれが服用しているレメディの誕生である。

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