HOME書庫ホメオパシーの謎を解く

                 ホメオパシーの謎を解く(パート7)

 パート7

 80歳で再婚したハーネマンの晩年
 1834年、79歳になったハーネマンに、新たな出会いが訪れた。
 パリ出身で、画家にして著名な詩人でもあった34歳の侯爵夫人メラニー・デルヴィーが訪れ、相思相愛の一目惚れとなり、またたくまに婚約をしたのである。ハーネマンの子供たちは、45歳も年上の男に近づいたのは財産目当てだと結婚に反対したが、ハーネマンは自分の財産をすべて子供たちに分け与え、一年後には結ばれてしまった。
 二人はケーテンを去り、フランスのパリに出て、リュクセンブルク公園が見渡せる場所に新居を構え診療を開始した。妻の方も、ホメオパシーと医学を学び、やがて夫の監督のもとで、貧しい人々のために無料で治療を行う医療者になった。
 市民からの支持は絶大で、連日多くの人たちが診療に訪れるようになった。その中には、バイオリニストのパガニーニ、大富豪のロスチャイルドといった各界の有名人もいた。
 波乱に満ちたハーネマンの人生だったが、晩年は公私ともに平和で幸せな日々を送ったようだ。そして1843年7月、こじらせた風邪がもとで、88年の生涯の幕を閉じた。
 夫亡き後、妻のメラニーは治療を続けた。ところが医学界の反感を買い「不法に医療と薬剤処方を行った」と告訴されて敗訴。市民から支持されていたにもかかわらず、医療行為ができなくなってしまった。その後は寂しい余生を送り、78歳で死去。パリのペール・ラシェーズ墓地にあるハーネマンの墓の隣に埋葬された。


左:ハーネマンの二度目の夫人、メラニー。
右:86歳頃のハーネマン






 その後のホメオパシーの発展と衰退、そして復活
 だが、ホメオパシーは世界的な広がりを見せた。ハーネマンが活躍の拠点としたドイツとフランスはもちろん、オーストリア、イタリア、スペイン、ポルトガル、イギリス、カナダ、アメリカ、ロシアにまで拡大していった。
 1860年のフランスでは、国内にホメオパシーの治療所が400、医師の数は1万5千から1万8千にも昇ったという。ほぼ同時期のイギリスでは、5つの私立病院と72の診療所でホメオパシーが行われている。1900年のアメリカでは、全体の医師の15パーセントがホメオパシーを活用した。
 しかしながら、一般医学の方も、瀉血や瀉下をやめ、病原菌の発見や薬の開発、外科手術の進歩などによって国民の大きな支持を得ていった。
 同時にアメリカでは、ホメオパシー医療に脅威を抱いた一般医学の医師たちによって、ホメオパシー撲滅を目的とした団体が創立され、魔女狩りのような弾圧を展開していった。 こうした事情により、国民の目は一般医学へと向けられ、ホメオパシーは一時期、虫の息のように力を失って衰退することになる。
 ところが、人間を部分的なものとしてとらえる一般医学の還元主義、それがもたらす薬害や非人間的な医療、副作用の強い不自然な治療などへの反動が起こり、さらには地球環境意識の目覚めや自然志向といった潮流を得て、20世紀後半くらいから息を吹き返してきた。人間を部分ではなく全体として、自然の治癒力を引き出すというホメオパシーの考え方が、ようやく理解されるようになってきたといえよう。




パリにあるハーネマンの墓






このページのトップへ