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                 ホメオパシーの謎を解く(パート4)

 パート4 

 レメディはこうして作られる
 このように、ホメオパシーのレメディは、単に原料を薄めるだけではなく、震盪させながら薄める、それも一定の割合(10倍あるいは100倍)に従って薄めることで薬効を宿したものとなる。
 今日では、症状や体質にあわせて、さまざまな濃度、すなわちポテンシーのレメディが製造されている。希釈度合いは、主に百倍法と十倍法の2つがある。
 百倍希釈法でレメディの作り方を説明すると、99パーセントの水(またはアルコール)に、原料から搾り取った1パーセントの原液を混ぜ合わせる。水に溶けない鉱物の場合は、最初に乳糖と混ぜてすりつぶしてから、その乳糖を水に混ぜる。
 次に、その液体を、30回から百回ほど激しく振って震盪させる。ハーネマンは聖書の上で液体の入った容器を叩きつけていた。
 こうしてできた希釈液は、100を意味するアルファベット文字「C」を用いて、1Cの希釈液と呼ばれる。つまり、1C(1%)の濃度ということなのだが、ホメオパシーでは1Cのポテンシー(潜在力)と呼んでいる。
 さて、そのポテンシー1Cの希釈液から、再び1パーセントだけ液を取り出し、新たに99パーセントの水を混ぜて震盪する。つまり、原液を基準にすると1万倍に希釈されたことになるが、これが2Cの希釈液である。この作業を何回も繰り返して、レメディは作られる。


一般的に多く使われるレメディは百倍に希釈する作業を繰り返しながら作られる。









 今日、家庭用に用いられているポテンシーは、だいたい6Cから30Cである。つまり、上記の作業を6回から30回繰り返したわけだ。さらには、200C、1000C(1Mと標記される)、10M、50M、CM(100M)、MM(1000M)といった、非常に高いポテンシーのレメディも作られており、主にプロのホメオパスによって処方されている。一般にポテンシーが低いほど肉体面に、高いほど精神面に作用するといわれている。
 アボガドロ数という、分子の数を知る化学上の単位を用いて計算すると、12C程度まで希釈してしまうと、一個の分子も混入されていない“ただの水”になってしまうことがわかる。
 市販されている一般的なレメディは、希釈液(マザー・ティンクチャー)の他、この液を蔗糖の丸い粒(ピル)や乳糖の錠剤(タブレット)などに染み込ませたものである。
 服用に際しては、こうしたレメディは、原則として一回につき一粒だけでよい。急性症状の場合(高熱など)は、数分おきに服用することもあるが、慢性病などは一日に一粒、あるいは一週間に一粒、ときには一カ月に一粒といった場合もある。ときにはたった一回一粒だけで完治してしまうこともある。信じられないくらいわずかな量のレメディで十分なのだ。
 というのも、ホメオパシーの基本原理は、レメディそのもので病気を癒すのではなく、病気を癒す主体である患者の生命力(自然治癒力)の「スイッチ」を押して目覚めさせることにあるからだ。そのために、これほど少ない量でも十分なのである。



今日、レメディの製造、すなわち希釈と震盪の作業は、ポテンタイザーと呼ばれる機械によって多くは行われている。写真は、エインズワース社のポテンタイザー。







 レメディの薬効は奇妙な周期性をもつ
 ところで、レメディの薬効と希釈度合いには、興味深い現象が存在している。
 薬効は希釈するほど強くなっていくが、正比例で強くなっていくのではない、といわれているのだ。つまり、薄めていく過程の中で、薬効が低くなったり高くなったりするのである。グラフにすると、波のように変動しながら薬効が強くなっていくのだ。
 そのためか、市販されているレメディの希釈度合(ポテンシー)の数値は、等間隔で加算されていくのではなく、やや不自然な並び方をしている。3C、6C、9C、12C、30C、200C、1M……といったポテンシーしか製造されていない。60Cだとか150Cといったポテンシーがあってもよさそうなのだが、それがないというのは、この希釈度では薬効が下がってしまうからなのかもしれない。
 いったいなぜ、希釈度合いに対する効果が波のように変動するのだろうか?
 たとえば、振動数が30の弦は、同じ30の振動数を共鳴させるが、30の倍音、すなわち60、90、120・・・といった振動数の弦をも共鳴させる。倍音ではない70とか100の振動数の弦は共鳴しない。レメディもまた、こうした音(波動)と同じような性質が宿っているのかもしれない。何らかの波動的なものが関与しているために、「倍音」の数値となる希釈度合いでしか効果が高くならないのかもしれない。


 波乱に満ちたホメオパシー発展への道
 ハーネマンの生涯に話を戻そう。
 ホメオパシーの名を初めて世界に発表してから4年後、45歳のときには、本格的なホメオパシーの著作を出版している。
 題名は『Organon of Medicine(医の原理)』。
 通称“オルガノン”として知られるこの本こそ、後にヨーロッパ医学界に衝撃を与え、今日、ホメオパシーの「聖典」となるものであった。
 この本はまたたくまに大きな反響を呼び、当時の医学界から激しく攻撃された。
 しかしひるむことなく、ハーネマンは自らつかんだ新しい医療の普及をめざし、ライプチッヒに舞い戻ってきた。そして激烈な口調で従来の医学のあやまちを糾弾し、大学などで講義を行い、精力的にホメオパシーを世に問いかけた。しかし、医師のなかで彼を支持したのは10人ほどで、あとは学生だけだったという。
 それでも、ライプチッヒの環境は研究生活にゆとりを与え、レメディの原料となる物質と、それが人体に及ぼす効果をまとめた著作、いわば「レメディ事典」ともいうべき『マテリア・メディカ(医療的な素材)』を出版するなど(全6巻の完成は1822年)、ホメオパシーの礎を着々と築いていった。
 1813年、チフスがライプチッヒで大流行した。これまでの医学で治療を施された患者たちは次々に死んでいったが、ハーネマンが治療した180人のうち、死亡したのはわずか2人だけだったという。この実績は、思いがけなくホメオパシーの効力を世の中に実証させたが、同時に、同業の医師や薬剤師の嫉妬と反感を煽ることになった。
 やがて、最初はハーネマンを迎えていた大学当局も彼を弾圧するようになり、ハーネマンに従う学生を落第させたり、その医療行為は不法なものだといって非難した。医学や患者への貢献よりも、自らの権威や利益を守ろうとする保守的な圧力がのしかかってきた。
 結局、不本意ながらもライプチッヒにはいられなくなり、65歳になったハーネマンは北へ50キロのところにある人口600人ほどの小さな町ケーテンに移り住んだ。この土地の公爵であるフェルナンド・フォン・アーハルト・ケーテンが、かつてハーネマンの治療によって癒されたことから保護者となり、ハーネマンを自分の主治医として迎えたのである。
 落ち着いた環境を見いだしたハーネマンは、診察と研究と執筆に専念していった。そして73歳の1828年には、代表的な著作のひとつ『慢性病の治療』と題する大著を書き上げている。この本は、医学界からは「気の狂った老衰した人間の書いたデタラメの本」と酷評されたが、一般の人々からは、あらゆる職業や身分の枠を超えて絶大な支持を得たといわれる。
 1830年、75歳のときに、愛妻ジョアンナ・エンリエッタが気管支炎を患って死亡。さらに庇護者だったフェルナンド公も死去し、相次ぐ親しい人の死に、ハーネマンにとって辛い年となった。しかもこの年から2年もの間、ヨーロッパにコレラが蔓延し、膨大な死者を出すという悲劇が襲いかかった。
 ハーネマンはコレラが細菌によって伝染することを見抜き、弟子たちに隔離と消毒を徹底させると同時に、新たなホメオパシーの処方を考案して実行させた。その結果、コレラ感染の拡大防止において非常な効果をおさめたという。
 ちなみに、1855年の統計だが、イギリスで大流行したコレラの場合、大都市の一般医学の病院では、1104人の患者のうち573人が死亡(52パーセント)したのに対し、ロンドン・ホメオパシー病院で治療を受けた61人のうち、死亡したのはわずか10人(16パーセント)だった。1892年、ハンブルクでのコレラ流行の場合は、一般医学の死亡率が42パーセントだったのに対して、ホメオパシーの死亡率は15パーセントであった。


ケーテン時代、ハーネマンが開いた診療所






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