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                    探求の光(第18話)


 与えられた人生を最後まで引き受ける

 もう長いこと歩き続けたので、靴はボロボロとなり、仕方なく裸足で歩くことにした。
だが、これほど長い間、私は真理を求め、悟りや解脱を求め、高い霊的境地の獲得を求めて歩き続けてきたというのに、今の私に、いったい何があるというのだろう。私は依然として迷い、苦悩し、不安で、低い欲望に悩まされている。
 ああ、私は疲れた。太陽がさんさんと輝いている。少し休むことにしよう。
 見ると、小高い丘の上に菩提樹の木が立っていた。その木の下に足を引きずりながら向かい、そこに横たわった。
 丘の下からは、さまざまな人たちが道を往復するのが見えた。商人、農民、職人、学生もいた。みんな、それぞれの生業をもち、家族や友人をもって生活をしている。彼らには、築き上げたものがある。
 ところが私はどうだろう。この長い間の苦悩の旅路の果てに、いったいなにを築いたというのだろうか?私には、何の誇れるものもない。仕事もなければ財産もなく、家族もいない。私は孤独で、この社会においては無能で何の価値もない。私は、そのへんにうち捨てられた木っ端と変わらない。
 横になった私の体に、菩提樹の花が雪のように降り注いだ。私は眠りに入っていった。何という安らかな、心地よい眠り。すべての不安と苦渋と、世界が私に対してなした仕打ちのすべてを忘れた。
 気がつくと、私は子供になっていた。十歳か、そのへんの子供に戻っていたのだ。
 すると、そこに天使が舞い降りてきた。右の天使がいった。
 「もしもあなたが希望するのであれば、あなたの人生を、あなたが十歳のときからやり直せるようにしてあげましょう。十歳の子供なのですから、これからの人生の方向は、どのようにでも決められるはずです。さあ、どうしますか? 今度は、宗教的求道の人生などやめて、平凡な職人としての人生を選ぶことだってできるのですよ」
 私は考えた。あんな辛くて不毛な探求の人生なんて、もうやめようかなと。今度は、平凡でも普通の生活をして、それなりにお金を貯め、余暇には娯楽を楽しみ、家族や友人と遊びながら、それなりに死んでいけばいいじゃないか。それもけっこうな人生ではないか。何も、偉そうに宗教的な理想など追い求めたって、それだけが価値ある人生ではないだろう。第一、うまくいけばいいが、うまくいかなかったら、それこそ惨めなだけで、空しいだけではないだろうか。
 私は、右の天使に、もう宗教的な探求などはやめて、今度は商人か何かとなって、お金を貯め、平凡な人生を歩みたいといった。すると天使は黙ってうなずいた。
 それから後、私はそのまま成長し、やがて日用雑貨を扱う商人となった。昼は働き、夜は酒をほどほどにたしなんだ。休日には釣りをしたり、ちょっとした賭事をして遊んだ。年頃になると結婚した。毎日のように妻を抱き、性の喜びを堪能した。やがて子供が産まれた。子供の成長を見ては喜び、子供が病気になったといっては心配した。そのうち部下を雇うようになり、大きな店を建てて主となった。商売がもうかったといっては喜び、赤字になったときには悩んだ。妻と喧嘩して他の女性と関係をもったこともあったが、いざこざの果てに別れたりもした。そして子供は成人となり、結婚して孫ができた。孫と遊びながら、その愛らしさに心を奪われた。髪は真っ白になり、歯も抜けて入れ歯を入れるようになった。そうして私は七十歳を過ぎた。
 あるとき、日も暮れかかった近くの丘を、杖をつきながら散歩した。そして、一本の菩提樹の木の下に腰掛けた。周囲には暗闇がせまりつつあった。
 遠い記憶がよみがえってきた。
 そうだ、かつて私は宗教的な苦しい探求をしていたのだった。そこに天使が舞い降りてきて、人生をやり直させてくれたのだ。私は探求の道を捨て、今のこの人生を選び直したのだった。それはもう、六十年以上も前のことだった。
 私は思った。これでよかったのだろうかと。
 たしかに、私には生活の不安もないし、特に大きな不幸も災難もない人生だった。平凡ではあったが、そこそこ人並みに財産も築きあげた。子供も孫もいる。恵まれた人生だったといえるだろう。
 しかし、私は何か、とてつもない大切なものが失われてしまったような、深い悲しみに襲われた。それはいったい何なのだろうか?
 なぜ悲しむ必要があるのか? 私は、私の願った通りの人生を、やり直すことができたのではないか。あの天使のおかげで。それは稀な幸運だったといえるはずだ。人生をやり直せるなんて、普通はだれにもできないことなのだから。
 しかし、いくらそう自分にいいきかせてもダメだった。私は、自分の人生を生きていなかったような気がした。私はだた、何か演劇でも演じていたに過ぎないような、虚構の人生を歩んできたような気がした。何か、借り物の人生を生きてきたような気がした。私はこの六十年を振り返って、恵まれた人生ではあったかもしれないが、「実りある人生」ではなかったことに気がついた。
 私は、胸の奥から魂の叫びを聞くような思いがした。自分が引き受けるべき人生を放棄したような気がして、深い後悔の念に襲われた。そして、それが悲しみの原因なのだとわかった。
 そうだ、宗教的な探求の人生こそが、「私の人生」だったのだ。それこそが、私が引き受けなければならないものだったのだ。たとえそれが、いかに苦悩と困難に満ち、不毛な戦いに明け暮れたものであったとしても。それが「私の人生」なのだから。そして、あくまでも自分の人生を精一杯生きることのなかにのみ、生きる意味があり、実りある何かをつかめるチャンスがあるのだと気づいた。
 私は、菩提樹の下に頭を打ち付けながら、六十年前の、自分の愚かな選択を後悔して嘆いた。そして祈った。
 「どうか、お願いです。六十年前のあのときに戻って、やはりもう一度、私は自分の人生を引き受けることができますように」と。
 すると、目の前が急に明るくなったかと思うと、眼下に、たくさんの人たちが往来しているのが見えた。頭上には菩提樹の木があった。
 「何ということだ、これは夢だったのか? それにしても、何という長い夢だったのだろう!」
 見ると、目の前には二人の天使がいた。左の天使がいった。
 「ほんの5,6分、眠っていただけだよ。人は、ときに自分の人生をやり直したいと思う。けれども本当は、人間は、いつだってその気なら、自分の人生をやり直しているのですよ。つまり、与えられた人生に対して、それをまっこうから受け入れるときに、それを味わい尽くすときに、人生をやり直していることになるのです。なぜなら、たいていの人は、自分に与えられた人生とまともに向き合おうとせず、大なり小なり、そこから目をそむけて、ありえない虚構の人生に目を向けているのですから」
 私は、内心ホッとした。これでよかったと思った。自らの人生を放棄せずに、それを最後まで引き受けるチャンスが失われていなかったことに感謝した。たとえどうであれ、この人生こそが「私の人生」なのだから。

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