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                    探求の光(第20話)


 究極の暗闇から生まれる新しい光 (後編)

 「やあ」と、私は女の子に声をかけた。女の子は、私を見つめ、かわいらしい笑みを浮かべた。
 「どうしたの、ひとりなのかい」
 「お母さんを待っているの」
 話をきくと、少女はお母さんと二人暮らしで、お母さんはクリスマス・イブだというのに、働きにでてまだ帰ってこないという。約束だと、もっと早く帰ってきて、教会で子供達に配っている無料のプレゼントを一緒にもらうはずだったのだが、それに間に合わなかった。しかも、まだ夕食も食べていないという。
 「お腹空いたろう」「うん」。私は、少女の空腹の苦しみと、いつになったら戻ってくるのかわからない母親を待つ不安、自分だけが他の同年代の子供とは違う生活をしなければならない悲しみといったものが、ありありとした実感として伝わってきた。それは少女の苦しみであるにもかかわらず、自分自身が実際に経験しつつある苦しみであるかのように感じられた。
 「ちょっと待っていてくれる?」
 私はそういうと、外に出て、食料品屋に向かった。店はすでに閉じられていたが、裏口から頼み込んでなかば強引に中に入れてもらった。ぶつぶついう主人の言葉を無視しながら、食料やお菓子を買って教会に戻った。
 教会に戻ると、少女の横にひとりの女性が座っているのが見えた。まだ若いに違いないのだが、顔には陰りが見え、疲れた様子で、やつれていたので、かなり老けて見えた。母親は、私を見て警戒している様子だった。「大丈夫よ、お母さん、この人は優しそうだから」と少女がいった。
「さあ、少し遅くなりましたが、これからクリスマスを祝うことにしましょう」
 そういって、机せましとパン、チーズ、ジャム、肉、ワイン、ジュース、果物、ケーキなどを並べた。二人はきょとんとして見つめていたが、とにかくみんなお腹が空いていたものだから、「おいしい、おいしい」と言葉を発する以外、みんな夢中になって食べたり飲んだりした。少女は叫ぶようにいった。「お母さん、今夜は最高のクリスマス・イブだね」。
 私は思った。「最高のクリスマス・イブ?」。父親がいない母親と娘だけの、それも貧しくて夕食さえ満足に食べられない家庭、あたたかい団欒ではなく、この寒々とした広い教会の中でのクリスマス・イブ、これが「最高」だというのか? いったいこの少女は、今までどのようなクリスマスを過ごしてきたというのだろう。
 なのに、この屈託のない明るい笑顔は何なのだ!? たったこれだけの食事で、これほどの幸せな表情が、いったいどこから生まれてくるのだろう。
 私は、少女の笑顔を見つめながら、自分自身の辛さをすっかり忘れた。世の中が私に対して行ったひどい仕打ちのすべてを忘れた。私は、この少女が満足そうに喜ぶ姿の中に、真実の幸福のかけらをかいま見たような気がした。
 食事が一通りすむと、少女はケーキを食べ、私と母親はワインを飲みながら、ようやくお互いのことをぽつりぽつりと話し出した。やがて母親は、まるで堰を切ったように、今までの辛い生活のことを話し出した。夫が事故で急死し、その後、女手一人で働きながら子供を育ててきた苦労がどれほど辛いものであったか、自分の娘に人並みのことをしてやれないことに対する、親としての無念さ、申し訳なさ、母子家庭ということで差別的な扱いを受けてきたことに対する悔しさ、悲しさ、子供と一緒に何度も死ぬことを考えたこと、このまま、将来がどうなってしまうのか、たまらなく心寂しく不安であること、あらゆる屈辱と悲しみの思いが、涙と一緒に口からあふれ出てきた。
 私はただ黙って耳を傾けていた。そして、この母親の辛さ、苦しみが、実際に自分のことのように感じられて胸が痛んだ。いや、自分のことのように、ではなく、この母親の苦しみは、まさに自分の苦しみそのものだった。
 話すだけ話して少し興奮が冷めると、母親は冷静さを取り戻した。「ごめんなさい。つい愚痴をいってしまいました」。そういって涙を拭きながら頭を下げた。その手は、どんな仕事をしているのか、かなり荒れてあかぎれがひどかった。髪は細く白髪混じりで、顔色にも生彩が感じられなかった。だが、話し終わると、その顔にもわずかながら光のようなものが見て取れた。少女が私の腕に手を回しながらいった。「ねえ、この人、私のお父さんみたいね」。
 その声を耳にした瞬間、まさに私はこの少女が、自分の娘なのだと感じられた。そう、本当に彼女は私の娘なのであった! そして、やつれた母親は、私の「妹」だった。
 母親がいった。「私は今まで、こんなにも自分のことを話したことなんかありませんでした。まして、初対面の人に対して、こんなに自分のことを話すなんて、少しどうかしていたのかもしれません。でも、何となくあなた様は、私の辛さをよく理解してくださっているような気がしたものですから、ついつい話を聞いてもらいたくて、夢中になって話してしまったのです」。
 そう、私にはよくわかった。あなたの悲哀と苦しみが、どれほどの深みと痛みを伴っていたのかが。その絶望的な不安と孤独が、どのようなものであるのかも、本当によく理解できた。
 なぜなら、私もまた、あらゆる苦悩と絶望、孤独と悲哀を味わってきたからだ。だからこそ私は、いまこうして、あなたの気持ちとひとつになって理解できる「兄妹」になることができるのだ。
 私は、自分が受けてきた、さまざまな苦しみの意味と目的がようやくわかった。
 それは他でもない、あらゆる人の気持ちに共感するため、理解するためだ。なぜなら、そうしてはじめて、私たちは兄妹になれるからである。私が今までの長い孤独の修行の果てにも到達できなかった「一体性」という霊的境地の最高点に到達できるからなのだ。
 私の修行の道は、間違ってはいなかった。正しい道を歩んできたからこそ、私にはあらゆる苦しみや屈辱や絶望が訪れたのである。それらは、決して罪の結果でもなければ、邪道の結果でもなかったのだ。人は、苦しみを通して、同じ苦しむ人と一体となることができ、一体となることによって「救い」はもたらされる。
 私はあらためて少女の顔を見た。私の腕の中で、彼女は眠っていた。その平安で清純な顔。私は少女の髪をなでた。私の娘よ、私の愛する娘!私は、君のためならどんな苦しみも、苦しみではない。死ぬことさえ恐ろしいとも思わない。私は君の幸せのためだったら、どんな苦労も苦労とは感じない。
 愛する娘よ。すなわち君の存在は、私からいっさいの苦しみを取り除いてくれたのである。君は私に救いをもたらしてくれたのだ。
 人が愛に生きるとき、自分の幸せのことも、自分の苦しみのことも考えたりしない。愛する者のためなら、いかなる苦しみも、死ぬことも越えられる。私は、どれほど「自分自身の救いのために」、孤独な修行をしてきたことだろう。だが、それでは救いは得られなかった。
 救いは、孤独の修行のなかにではなく、人との関係のなかに、「共にあること」のなかにあったのだ。救いは、愛の中にのみ、存在する。愛に生きることが、すなわち救いだったのだ。
 私は、残された人生を、苦しみに泣く「私の娘」のために、「私の兄妹」のために捧げよう。自分の救いのことなんか、もうどうでもいい。ただ、この愛らしい少女が、このまま純粋性を保ちながら、人間を信用でき、神の愛を信用でき、思いやりと優しさが失われることなく、衣食住に不自由することもなく、健全に天命をまっとうして幸せになってくれればいい。それだけが私の願いだ。この母親が、子供に対して十分なことをしたやれたと誇れるようにしてあげたい、ただそれだけだ。
 すると、にわかに天井から天使が降りてきた。そして右の天使がいった。
 「人を救うには、まず自分を救わなければなりません」
 続いて左の天使がいった。
 「自分が救われるためには、人を救わなければなりません」
 私は、再び探求の光を求めて道を歩むだろう。
 だが、もはや孤独な道は歩まない。私は山の中には入らない。私は、人々と共に歩むだろう・・・。
 窓から朝日が射し込めてきた。ふと見上げると、二人の天使に囲まれ、十字架にかけられているキリストの像が、かすかに微笑んだような気がした。

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