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                    探求の光(第19話)


 究極の暗闇から生まれる新しい光 (前編)

 私は、もう三日間も何も食べずに歩き続けた。食べ物が欲しくても、所持金はなくなってしまったのだ。いくら宗教的理想を抱いていたとしても、飢えていては、頭も身体も働かない。だが、特定の宗教に属さない私は、いったいどのようにして人々から施しを受けることができるだろう? あの法衣と袈裟さえ身につけていれば、それは物乞いではなく「托鉢」という立派な宗教的修行になる。けれども私のように、一般の人々と同じ、それもボロになった服を着ている者にとって、人々から食物や金を求めることは、単なる物乞いにすぎないのだ。あの法衣と袈裟があれば、人々は喜んで「布施」をしてくれるだろうに。食物や金の施しを受けても、恥じらうことは何もないのだ。法衣と袈裟は、まるで魔法のようである。
 私は、飢えのために身体がいうことをきかなくなり、道ばたに座り込んだ。もう我慢ができなかった。
 かつて、私は2週間断食しても平気だった。なぜなら、断食が終わればいつでも食物を口にできるとわかっていたからだ。けれども、今は違う。金のない私にとって、このまま何もしなければ、それは飢えて死ぬことを意味している。その不安のために、この三日間の飢えは、二週間の断食よりもずっと辛く感じられた。かといって、今から仕事を見つけるのでは遅すぎるし、盗みを働くことなどはできない。私に与えられた選択肢は一つしかなかった。それはすなわち、物乞いをすることである。
 しかし、それは何と屈辱的なことだろう。何という恥ずかしいことだろう。私には、まだそれに抵抗する気力と体力があった。私は、少し歩いて、人目のつかない林の中に横たわった。
 冷たい風が吹いてきた。そういえば、もうすぐクリスマスではないか。私は、凍えながら一晩を過ごした。空腹の身に、それは一層せつなく、辛く感じられた。私は、飢えて死んでいく人たちの苦しみを理解できた。その肉体的苦痛も、絶望と恐怖に満ちた精神的苦痛も味わった。
 あくる日、私はいよいよ耐えきれなくなり、道行く人に勇気を振り絞って声をかけた。
 「あの、すみません。少しでいいんです。何か食べ物か、お金をいただけませんか」
 相手の顔を直視することができなかった。あまりの恥ずかしさ、屈辱で声が震えた。施しを受けるときには、自分を哀れな者のように演じなければならない。自分を卑下しなければならない。だれが威張っている人に施しをくれるだろう。自分を、まったく価値なき無力な弱者のように振る舞わなければならなかった。私は、自分がそんなことをしていることに、耐え難い破廉恥な感情と情けなさを感じた。ひどい屈辱感と絶望を味わった。私は、人から物乞いをしなければならない人の心の痛みがわかった。
 だが、人々は、声が聞こえないふりをして通り過ぎていったり、「そんなお金ないよ」といって、まるで犬を追い払うかのような手つきで私を遠ざけるだけだった。一時間も声をかけ続けたが、だれひとりとして、施しをくれた人はいなかった。飢えのために手足が震え、言葉も満足に出せなくなってきた。これほどの肉体的な、そして精神的な苦痛を味わうくらいなら、死んだ方がはるかにましだと思った。パンを一切れ買うだけの、たったわずかな金を得ることが、これほど絶望的な、まるで普通の人が億万長者になるくらいに難しいものであることを知った。
 そしてついに、声をかける気力もなくなってしまったので、道ばたに落ちている空き缶を拾うと、それを前に置いて横たわった。だれか、奇特な人がお金を入れてくれるかもしれない。その期待にかけるしかなかった。
 横になりながら、道行く人たちの光景を、うつろな気持ちで見つめた。夕方になり、みんな家に帰っていく。クリスマスのプレゼントを手にもっている人をたくさん見かける。だれもが、帰るべき家を持ち、プレゼントをあげる相手をもっている。相手の存在を認めあえる人がいる。自分が帰ってこなければ、大騒ぎして心配してくれる人がいる。
 けれども、今の私はどうだ。だれも、私のことなど気にかけてはくれない。私がどういう状態であろうと、私が飢えに苦しんでいようと、そうでなかろうと、どれほど絶望に苦しんでいようと、私が死のうと、このまま道ばたで横たわっていようと、だれも心配もしなければ、待ってくれる人もいない。自分の存在を気にかけてくれる人はいないのだ。私は、ひとり孤独に死んでいく人の気持ちが理解できた。その、まっくらな絶望と孤独の、深淵に沈み込んでいくような空虚さの苦しみを味わった。
 夜、冷たい風に凍えながら、私は神を呪った。
 自分は、高い宗教的理想を求めて道を歩んできたつもりである。なのに、なぜこれほどの苦しみと屈辱を受けなければならないのか? 私のしてきたことは間違っていたとでもいうのか?
 だが、神は沈黙しているだけだった。だれも、神さえも慰めてくれない世の中なのか。私は、この世界に何も信じるもののない人の不安な気持ち、孤独で、虚無的な気持ちを味わった。それはもっともひどい苦しみであった。裏切られたような、ひたすら空しい、やり場のない気持ちだった。
 やがて、朝になり、道には人々の行き交う姿が見られ始めた。とつぜん、数人の若者がやってきた。そのうちの一人が、私の顔の前に金貨を見せた。私がそれを受け取ろうとして手を伸ばすと、若者はさっと手を引っ込めて「おまえになんか、やるわけないだろう、このうすのろめ!」といって、仲間たちとゲラゲラ笑いながら去っていった。世の中には、自分を楽しませるために、弱い者を小馬鹿にしたり、からかっていじめたりする卑劣な人間がいる。私は、そんな連中からいじめられる人たちの、その傷心が理解できた。その悔しさと辛さを味わった。しかし私には、彼らに抗議するだけの力はなかった。それが悔しさを倍増させた。
 次には、ひとりの初老の男がやってきて身をかがめ、何やら話を始めた。頭をもうろうとさせながら耳を傾けていると、それはどうやら「お説教」らしかった。「働かないで物乞いをしていて恥ずかしくないのか、私なんか、少年の頃からよその家に奉公に出て、朝から晩まで一所懸命に働いたものだ・・・」。こうして、彼は自分がいかに苦労して身を立てていったかを、三十分も続けて話していた。彼は自分の言葉に酔いしれ、得意げだった。私は思った。世の中には、人に説教するという名目で、だれかに自分のことを聞いてもらいたい、自慢したいという欲求に満ちている人がいるのだということを。説教していると、何か自分が偉くなったような気分になれる。そのために相手を求めている人がいるということを。私は、そんな人たちの前で何もいえず、ただそのくだらない説教を黙ってきかなければならない立場にいる人の圧迫感、吐き気を催すほどの胸くそ悪さを理解した。
 そして、その男が、自らの優越感を満たす最後の切り札が「金」だった。「さあ、これをやるからな。だから立派になるんだぞ」。そういって、いくばくかの金を渡すと、「私はひとりの人間を立ち直らせるきっかけを作ったのだ。何という善人で偉いんだろう」といわんばかりの、満足した表情を浮かべながら立ち去っていくのを見た。
 私は、このような人間がたまらなくイヤだったが、空腹にあえぐ今となっては、そんなことはどうでもよかった。見ると、その男は自分が思っていたよりもずっと多額の金を施してくれた。私は狂喜した。まるでこの世で一番の金持ちにでもなったような気分だった。と同時に、これだけのお金を恵んでくれたあの男が、にわかに「善い人」に思えた。そして、そのように思ってしまう自分自身に情けないものを感じた。
 私は、近くの雑貨店で食料を買うと、路地裏でむさぼるように喰った。まるでネズミになったように感じた。今までの、あの気高い求道者の誇りはどこへいったのか? それを思うと、ここまで堕落してしまった自分自身が悲しかった。これだけ腹を満たしても、まだなお、かなりの金がポケットのなかにあることを思うと、とても安心し、妙に自信のようなものがついてくるのを感じた。
 「ああ、結局、私の精神的な安心立命の土台など、カネということじゃないか。今まで私は、カネや物質的なものを越えた、もっと永遠不滅なもの、宗教的真理といったものを、安心立命の土台とすべき、修行の道を歩んできたはずではなかったのか?」
 そう思うと、胸の中が殺伐としてくるのを感じた。私は、この世のあらゆる悲しみ、あらゆる絶望と空しさを味わい尽くしたような気がした。そして、深い罪人になったような気がした。自分の堕落と罪を背負いながら生きなければならない人の苦悩を、私は理解した。
 すっかり夜も更けてきた。飢えが満たされると、今度は冷たさが堪えるようになり、どこかあたたかい場所はないかと寝場所を求めて歩いた。すると、扉が開いて、そこから明かりがもれているのが見えた。そこは教会だった。
 なかを覗くと、7,8歳くらいだろうか、ひとりの少女がぽつんと座っているのが見えた。あとはだれもいなかった。こんな夜中に、なぜあんな小さな女の子がここにいるのだろうかと不思議に思った。
 そのとき、あたりをほのかに照らしながら、とつぜん二人の天使が舞い降りてきた。
 右の天使がいった。
 「あの女の子を助けるために、神様があなたをここに導いたのですよ。行って女の子の話を聞いてあげなさい」
 次に左の天使がいった。
 「あの女の子は、あなたを助けるために、神様がおつかわしになったのです。行って、女の子の話に耳を傾けなさい」
 彼らの真意はよくわからなかったが、とにかく私は教会のなかに入り、女の子に向かって歩いていき、そしてその隣に座った。

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