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                 禅問答の世界(第0問「慧能の逆説」)

 第0問「慧能の逆説」

 禅を確立した大鑑慧能(だいかんえのう)はいった。
「長時間座禅をして、心をひとつのことに集中させるというのは、禅病であって本物の禅ではない。ひとつのことに集中しようとすることは執着なのだ。心は動くようにできている。ひとつのことに執着しないからこそ、自由な境地でいられるのだ」
 では、何によって悟りを開くのか?
「座禅ではなく、心によって悟りを開くのである。だから、迷う心に悟りなど開けるはずがない。まして、座禅が禅の目的などではないのだ」
 だが、われわれは、迷うからこそ悟りを開きたいと思う。そのために座禅をする。
 しかし慧能はいう。迷うから悟りが開けないのだと。座禅では、悟りなど開けないのだと。座禅ではなく、(迷わない)心によって悟りを開くのだと。
 だが「迷わない心」とは、すでに悟っているということである。
こうなると、どうどう巡りである。座禅ではなく、迷わない心で悟るというが、迷わない心とは、悟っているということだ。
 ならば、いったいどうすればいいのか?


 第0問に対する私の考え方
 →禅の開祖が「座禅では悟りは開けない」といっているのである。ご存じだったであろうか。これは実に意外な言葉である。禅といえば座禅。座禅によって悟りを開くと思っていたのだが、そうではないといっているのだ。
 ならば、座禅は何のためにやっているのだろうか?
 実は、この「何のために」という問いかけそのものが「迷い」なのである。
 「何かのために何かをしなければならない」という発想そのものが、迷いの根源なのだ。私たちは、目的とするものを手に入れようとして、どうしようかと迷う。あらゆる方法や手段を考える。
 だが、悟りとは、迷わない心そのものなのであるから、目的とするもの、それが悟りであれ何であれ、それを得ようとして手段を講じるときにはすでに、迷いがあるということであり、そのような迷う心でいくら修行しても、結局は迷いのままになってしまう。つまり、悟りは、迷いの延長線上にはないということである。
 したがって、もしも悟りを開きたければ、最初から迷わない道を歩むこと、すなわち、悟りを目的として、その手段として座禅をするという方法論の発想を捨てなければならないのだ。
 では、迷わない道とは、どのような道であろうか。
 それは、悟りを目的にしない道である。座禅を、悟りを開くための手段にしない道である。何の手段にもしないことである。
 ならば、再び同じ質問に戻ってしまう。座禅は何のためにするのかと?
 何のためでもない。座禅なんかやったって、何の役にも立ちはしない。
 では、あなたは、何の役にも立たない行為は、いっさいしないだろうか?
 あなたの人生の行動のすべては、何かの役に立つための手段なのであろうか。あなたの人生の中に、何の役にも立たないけれども、しかし、にもかかわらず、それをやるという行為は、ないだろうか?
 もしも、そのような行為があるなら、どうか振り返ってみていただきたい。その行為をしている最中に、「迷い」はあるかと。
 座禅とは、迷いのない心境そのものの表現行為に他ならない。決して、何かを得るための「訓練」ではないのだ。

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