HOME書庫禅問答の世界

                 禅問答の世界(禅問答とは何か)

 実際に公案(臨済宗に伝わる悟りを開くための質問)をあげながら、私の考えを紹介したものです。皆さんも、実際にひとつひとつの公案がどういう意味なのかを考えながら、自分なりの「解答」を見つけてみてください。なお、公案にはいわゆる「正解」というものは原則として存在しません。考えに考えて、その結果として理屈を超えることに目的があるのです。


 禅問答とは何か
 禅問答とは、公案(こうあん)とも呼ばれる、悟りを開くための修行法のひとつで、ひらたくいえば「なぞなぞ」であり「とんち」である。しかし、このなぞなぞは、論理的思考では決して解けないような矛盾や不合理なものとなっている。にもかかわらず、このなぞなぞをひたすら何年も考え続けると、ついには論理の壁を破って「解答」がわかるときがくる。そのときに、悟りが開かれるといわれる。というのも、悟りは論理的思考を越えた、換言すれば、二元的思考を越えた一元的な意識の領域に属するからである。
 私たちも、こうしたなぞなぞ、公案を考えることによって、悟りとまではいかなくても、人生のさまざまな問題や悩みに遭遇したときに、それらを解決する名案を得るための、頭の体操には十分になることだろう。なぜなら、人生は不条理に満ちており、その問題も、あれか、これか、という二元的な選択ではどうしようもないようなことが多いからである。

 禅とは何か
 釈尊の思想を継承したダルマ大師が、インドから中国に伝え、その後、六代目の慧能によって確立されたのが禅である。それを日本に伝えたのが道元と栄西で、前者は曹洞宗、後者は臨済宗となった。公案と呼ばれる禅問答は、主に臨済宗で行われている。
 公案は、悟りの妨げとなっている理屈、分別知、観念を打破することを目的とした質問である。そのため、いくら理屈、つまり論理で考えても解答は出ない。ある禅師は次のように述べている。
「公案は頭で考えてわかるものではない。自らの人生経験を体験して、その工夫から出たものでなくてはならない。理性や、感性を越えたところから出てくるもので、全身全霊で打ち込まねばならない。ここをあえて名づけるならば、霊性的自覚といえようか」

●禅の根本思想
━━━━━━━━━━━━━           ━━━━━━━━━━━━━
不立文字(ふりゅうもんじ)           教外別伝(きょうげべつでん)
━━━━━━━━━━━━━           ━━━━━━━━━━━━━
悟りの境地は文字で表現できない。       悟りの境地は以心伝心で伝えられる。
二元的論理思考を超えた純粋経験である。    説法はそのための媒体にすぎない。
                                                      
━━━━━━━━━━━━━           ━━━━━━━━━━━━━
直指人心(じきしにんしん)           見性成仏(けんしょうじょうぶつ)
━━━━━━━━━━━━━           ━━━━━━━━━━━━━
悟りの境地は、直知として認識される。      悟りの境地は自己の仏性に目覚めること。
観念を通さずに真理は示される。         成仏とは真の自己を取り戻すこと。

 公案には、実は正解というものはない。正解らしきものを載せたものはあるが、それは本来の禅のあり方とは違っている。もしも正解があったら、本当に公案は単なるなぞなぞであり、「頭の体操」でしかなくなってしまう。
 公案は師匠によって授けられるが、その解答がどのようなものであっても、その弟子が悟りを開いたと思われれば、その解答は「正解」になる。たとえば、「犬にも仏性はあるか?」という公案に対して、ある弟子は「ある」と答え、別の弟子は「ない」と答えたが、どちらも正解であるとした例もある。
 大切なのは、解答そのものではなく、その解答がどのような心境から発せられたものか、ということなのであろう。
 以上を念頭においた上で、私の考え方をご紹介してみたいと思う。

このページのトップへ