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                禅問答の世界(第10問「一切を捨てる」)

 第10問「一切を捨てる」

 趙州和尚に厳陽善信(げんようぜんしん)が尋ねた。
 「私は、一切を捨てて何ももっていません。私は、どうするべきでしょうか」
 「捨ててしまえ!」
 「捨ててしまえといわれても、もう何ももっていないのです」
 「その、捨てるものは何もないというものを、捨てるのだ!」

 −趙州録−



 第9、第10問に対する私の考え方
 これら二つの公案は、同じ意味での心のあり方について論じている。
 すなわち、「苦しみ」というものは存在しない。ただ、苦しみと受け取るか否かである。同じ物事でも、それを苦しみと感じる人もいれば、幸せと感じる人もいる。すべては心のあり方、それをどう捉えるかによる。存在するのは苦しみではなく「苦しむ心」である(もっとも、これも実は存在しない幻想である)。
 ところが、私たちは、苦しみというものが、実際に存在するかのような「錯覚」を抱いており、いわば自分で作りだした幻想の世界に埋没している。したがって、必要なのは、「苦しみ」を捨てることはなく、「苦しいと思う心」を捨てることなのだ。
 第10問も、同じように、捨てなければならないものは、「捨てるものは何もないと思う心」なのであった。第10問の冒頭で、厳陽善信が「私はどうすればいいのでしょうか」と尋ねている点に注意していただきたい。これは明らかに迷いである。迷う心が、まだ残っていることを示しているわけである。これこそが、本当に捨てなければならないものなのだ。本当にすべてを捨てた者は、「どうすればいいでしょうか」などとは決して問わない。自分の肉体も心も、その生きざまのすべてが、あるべくしてあるように生きる。
 ところで、人間はどのようなときに、自らのすべてを“捨てる”ことができるだろうか。おそらく、それには二つある。ひとつは、死を覚悟したときである。捨て身の心境になったときだ。なぜなら、生命ほど大切なものはなく、生命を捨てたら、他には何も残らないからである。生命を捨てる覚悟が(本当に)できたら、何も恐ろしいものもない。
 そして、もうひとつは、“真に愛すること”である。なぜなら、人は愛するもののためなら、生命を捨てることも惜しくなくなるからである。したがって、真に愛する者もまた、何も恐ろしいものもなく、迷いもない。
 愛は無条件であり、すべてを肯定して受け入れる心である。この人生を愛する人は、この世の喜びや楽しみだけでなく、悲しみも苦しみも肯定して受け入れる。なぜなら、喜びも苦しみもあるのが人生だからだ。何かを愛するとは、自分に都合のいいところだけを取り出して愛し、都合の悪いところは愛さない、というものではない。こうした条件づけられた愛は、真実の愛ではなく、「迷う心」である。愛は無条件なるがゆえに、人生を真に愛する人は、そこで自らに起こるすべてのことを「これでよし」として受け入れる。どうしようかと迷うことはない。

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