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                 禅問答の世界(第13問「野鴨」)

 第13問「野鴨」

 馬祖が弟子の百丈と歩いていると、野原から野鴨の一群が飛び去っていった。
 それを見た馬祖が、百丈に尋ねた。
 「あれは何だ」
 「野鴨です」
 「どこへ飛んでいったのか」
 「わかりません。ただ飛んでいったのみです」
 答えを聞いた馬祖は、いきなり百丈の鼻を強くつまみあげた。
 「痛い!」
 「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」
 百丈は悟りを開いた。


 −碧巌録−


 第13問に対する私の考え方
 禅の師匠は、あらゆる日常の機会を利用して、弟子の悟りの境地を試したり、また促すようなことをする。それはいつ行われるかわからないので、弟子はボーとしているわけにはいかない。今回の公案も、その一端を述べたものである。
 さて、野原から野鴨が飛び去って行くのを見て、弟子に「あれは何だ」と質問する。師匠は、もちろん、それが野鴨であることは承知のはずである。にもかかわらず、「あれは何だ」と尋ねているのであるから、弟子ならば、そこで「来たな」と思わなければならない。ところが、後に高僧となった百丈であるが、このときはボーとしていて、これが師匠の試みであることに気づかなかったようだ。
 どこへ飛んでいったのかという次の質問をされても、当たり前の、「わかりません。ただ飛んでいったのみです」などという、凡庸な答えをしている。そこで師匠は、ショックを与えるために(禅の世界では、弟子の意識に褐を入れて覚醒させるために、奇想天外な、またしばしば過激ともいえるショッキングな行動をとる場合が多い)、百丈の鼻を強くつまみあげて「飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」と述べたのである。
 では、いったいこの言葉の意味はどういうことなのか?
 物理的な空間という視点からいえば、確かに野鴨はどこかへ飛び去っていった。しかし、それはあくまでも「自分」という位置から見た場合の解釈である。自分という意識から、飛び去っていく野鴨を見たとき、野鴨はあたかも自分の目の前から、その存在が消えてしまったかのような印象を受ける。
 けれども、野鴨の存在は消えてしまっているのではない。野鴨はどこかに存在している。たとえば、野鴨の行き先に「自分」がいたら、野鴨がどこからから飛んできて、目の前に現れたように見える。けれども、野鴨は「現れた」のではない。最初から存在していたのである。もしも野鴨の立場になってみれば、自分たちは飛び去って消えてしまったわけでもなく、突然にこの世に「現れた」というわけでもない。
 つまり、野鴨の存在が消えたり現れたりするように思えるのは、「自分」という意識に閉じこめられている結果として生じる「幻想」なのである。そこで、師匠は、「自分」という限定された意識をシフトさせて、その限界をうち破ろうとしたわけである。師匠は鼻をつまんだ。弟子は「痛い」と感じた。痛みというのは、リアルな感覚である。よく、これが夢ではないことを証明するために、ほっぺたをつねるということがあるが、これと同じことだ。では、痛みを感じさせて、同時に「野鴨がここにいる」といったとき、弟子の意識には何が生まれたか? このとき弟子の意識に生まれたのは、存在が消滅もしなければ現れもしない、何も変わらない野鴨の(立場にたった)真実だったのである。
「そうか、野鴨はどこにも消え去ってはいない。そう思えたのは、自分という狭い視野から物事を見ていたために抱いていた幻想だったのだ」とわかったのだ。
 悟りとは、自分が勝手に作り出している虚像や妄想をうち破ることである。このようにして、百丈は悟りを開いた、というわけだ。

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