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                禅問答の世界(第7問「風になびく旗」)

 第7問「風になびく旗」

 風になびく旗を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは旗が動いているのだ」
「いや違う。風が動いているのだ」
 そこに通りかかった慧能がいった。
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」

 −無門関−



 第7問に対する私の考え方
 実際の所、動いているのは旗だろうか、それとも風なのだろうか。旗が動くのは、風にあおられているからである。その視点からいえば、動いているのは旗ではなくて風である。だが、別の視点からいえば、たとえ何かによって動かされているとしても、旗が動いていることに変わりはない。
 これは、「クルマが動いているのではない。エンジンが動いているのだ」という理屈と同じであろう。確かにエンジンが動いているのだからクルマが動いているのだが、「クルマが動いている」といっても、別に間違いではない。第一、エンジンだって、「動いているのは内部のピストンであってエンジンではない」といえるだろう。さらにいえば、「動いているのは内部のガスであって、ピストンではない」ともいえる。
 一方、たとえ内部のガスを原動力にしているとしても、エンジンという機構がなければ回転運動とはならず、さらにはエンジンだけ回っても、それは空回りするだけで、結局、本当に「動く」といえるには、クルマという全体がなければならない、という考え方もできる。
 このように、考え方によって、物事はいかようにも解釈できてしまうものである。
 ひとつの考え方から別の考え方に移動すれば、旗が動いているのだともいえるし、風が動いているのだともいえるのだ。
 この世界は、すべて相対的である。人間は、相対世界に埋没しているのであり、そのために喜怒哀楽を経験し、喜んだり苦しんだりし、輪廻の世界を巡っているわけである。巡るのは、心があちこちと巡っているのである。
 すべて、考え方、すなわち「心」が、あちこちと動いているのだ。心が動いているから、物事がいかようにも見えてしまうわけである。「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」とは、まさにこういう意味である。
 悟りの境地は、はかない相対世界から解脱し、絶対的な世界に参入することである。しかしながら、それは、心を一点に固定させてしまうことではない。特定の価値観や物の見方に固執してしまうことではない。固定してしまうと、「言い争い」が生じるのである。
 おそらく悟りを開いた人は、旗が動いていると見ても間違いではないが、正しくもない。風が動いていると見ても間違いではないが、正しくもない。そういうだろう。固定化された視点をあちこち移動したりしないから、言い争うこともない。要するに、「相対的な世界を相対的に見る」ことが「絶対的な見方」ということなのであり、それがつまりは「不動の心」ということになる。

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