禅問答の世界(第17問「仏法の奇特」)
第17問「仏法の奇特」
ある僧が百丈に尋ねた。
「仏法における奇特とは何ですか?」
「私が、ここに座っていることだ」
答えを聞いた僧は、ひれ伏して礼拝した。
すると、百丈は、その僧を棒で打った。
−碧巌録−
第17問に対する私の考え方
まず、慎重にこの問答を考察してみよう。「仏法における奇特」、すなわち、仏法における偉大なことというのは、自分がここに座っていることだといっている。これはともすると、非常に傲慢な言葉として聞こえなくもない。要するに、「自分は偉いのだ」といっているようでもある。
すると、相手の僧は、そのようにいう百丈にひれ伏して礼拝する。これは、「自分は偉い」といっている相手に向けられた敬意の表現ということだと解釈していいだろう。ところが、そうしている僧を、百丈は棒で打ったのである。
この「棒で打つ」という行為は、以上の文脈でいえば、「自分を礼拝するのは間違っているのだぞ」という意味で棒で打ったと解釈できるが、そればかりではないかもしれない。つまり、必ずしも「罰を与えた」という意味ではないかもしれない。そこで、もう一度、最初から考えてみよう。
まず、百丈が、「仏法における偉大さとは、自分がここに座っていることだ」といった真意は、いったい何だったのだろうか?
仏教の目的は、すべての人間に眠る仏性を覚醒させることである。これが仏法の偉大さである。しかも「偉大さ」とは、「自分はおまえよりもレベルが高い」といった上下差別的な位置づけで決まるのではなく、むしろ、そういった差別的な意識から脱却することにある。それゆえに、本当に悟りを開いた人は、自分を偉大であるなどとは思わない。そう思うのは迷妄である。したがって、百丈が「自分は偉いのだぞ」という意味で、あのような言葉を述べたのではないことがわかる。
ところが、僧は、百丈自身が偉いのだと思って礼拝した。個人をそのように礼拝することは、まさに、差別化という迷妄からの脱却である仏法を誤解していることに他ならない。その間違いを指摘するために、彼は棒で叩いたのである。
しかし、他にも、おそらくもうひとつの意味がある。
「自分がここに座っていること」というのは、「仏性がここにあること」ということでもある。だが、仏性は誰にもある。そして、それに目覚めることが仏教の目的であり、悟りを開くということである。
その僧は、百丈を拝んだ。それは仏法の偉大さである仏性を顕現させているから、つまり、悟りを開いた高僧だからという理由であろうが、その僧が、百丈の仏性を拝んだ瞬間に、棒で叩かれたなら、彼の意識に、いったい何が生まれるであろうか?
すなわち、身体の衝撃のために、相手に向けられていた仏性礼拝の念の向きが、自分自身に向けられるのではないか?
禅では、このような手法をときどき使う(鼻をつまんだ13問、指を切った15問を参照)。ショックを利用して、意識の向きがひっくり返るのを狙うのである。棒で叩かれたその僧は、はっとして、この瞬間に「自分自身の仏性」を拝んだのではないか?
こうして、相手の仏性を拝むと同時に自分の仏性を拝んだ僧は、万人に宿っている何の差別もない仏性を、このときに「体感」したに違いない。