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                 禅問答の世界(第14問「糞かきベラ」)

 第14問「糞かきベラ」

 ある僧が、雲門文偃(うんもんぶんえん)に尋ねた。
 「仏というのは、どんなものですか?」
 「糞をかき取るヘラだ!」


 −無門関−


 第14問に対する私の考え方
 前回で少し触れたように、禅の師匠は、弟子の意識を覚醒させるため、しばしばショックを与えるような言動をして、悟りに導こうとする。これも、そのひとつである。仏というのは、「糞をかき取るヘラ」のようなものだといっているのだ。つまり、世の中でもっとも汚らしい物だといっているのである。
 普通一般の宗教であれば、このようなことをいったら、神聖な神や仏への冒涜だと非難されるだろう。だが、禅ではそのようなことはおかまいもしない。
 私たちは、神や仏というものが「神聖」であると思っている。確かに、それは神聖であろう。だが、この言葉の背理としては、神や仏以外のものは神聖ではない、ということになる。そうなると、私たちの意識は、神や仏に対するときには神聖な気持ちで向き合い、それ以外の、世俗の生活や事物に向き合うときには、神聖な気持ちをもたないということになる。
 けれども、神仏は神聖で、世俗は神聖ではない、と区別する、その根拠はどこから来たのだろうか? 神仏が直接、そのように教えてくれたのだろうか?
 そうではないだろう。私たちが勝手に、神仏は神聖なもので、それ以外は神聖ではないという区別したのである。これは、言い方を変えれば「偏見」である。
 つまり、そのような偏見によって、私たちは神や仏という存在を認識しているのである。それは砂漠の蜃気楼のようなものである。神仏そのものを認識しているのではなく、自分で勝手に作りだした神仏のイメージを認識し、崇拝し、神聖であると信じ込んでいるに過ぎない。夢幻を神仏と崇めているのだ。
 この世の中には、神聖であるもの、神聖でないもの、というのは存在しない。ただ心が、それを神聖であると見なせば神聖となり、神聖でないと見なせば神聖ではなくなるだけである。あるいは、この世界は、神聖である神によって創造されたのだとすれば、この世のすべても神聖であるといってもいいだろう。同じようなことを、古代ギリシアの哲人ゼノンは、「下水、ウジ虫、性交にも神あり」という言葉で表現している。「仏とは糞かきヘラだ」という言葉の真意は、「仏とは糞かきヘラのように不浄だ」ではなく、「仏とは糞かきヘラのように“神聖だ”」なのである。
 すべてが神聖である。すべてに仏性がある。物にも、動物にも、そしてあらゆる人々にも。すべての人々を「仏」として崇めることができる心こそが、悟りの境地に他ならない。

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