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                 禅問答の世界(第11問「瓶と呼ばず」)

 第11問「瓶と呼ばず」

 新しい寺の住職を決めるため、二人の僧を試験して決めることになった。
 百丈(ひゃくじょう)和尚は、瓶を指さして、
「これを瓶と呼ばないで、何と呼ぶか」
 最高の弟子とされた僧が答えた。
「木っ端ぎれと呼んではいけない」
 次に、典座の霊祐に尋ねた。
 すると彼は、瓶を蹴飛ばしてさっと去ってしまった。
 百丈は、霊祐を新しい寺の住職に決めた。

 −無門関− 



 第11問に対する私の考え方
 
ここで登場してくる典座(てんぞ)とは、いわゆる寺の雑用係であり、主に修行僧の食事を作るのを仕事とする。こうした仕事だけをひたすら行う僧のことで、座禅だとか、そういった意味での修行はしない。そうすると、僧の中では身分が下のように思われるかもしれないが、実は、典座は、ある程度の高い境地に達した僧の地位であって、食事作りや雑用そのものを、修行として行っている。
 さて、師匠は、瓶を指さして「これを瓶と呼ばないで、何と呼ぶか」と質問している。これはつまり公案なのであるが、まず、これをどう解釈したらいいのだろうか?
 師匠の指さしたものは、瓶なのである。つまり、瓶と呼ぶ以外に、いったい何があるというのだろうか。それ以外の呼び名はないのである。なのに、師匠は「何と呼ぶか?」と尋ねている。つまり、「何と呼ぶか」という言葉そのものが、すでに間違いなのである(その言葉で弟子をひっかけようとしているわけだ)。何とも呼びようがないわけである。
 それに対して、最高の弟子とされる僧は「木っ端切れと呼んではいけない」と答えている。
 この答えは、間違いというわけではない。それは瓶なのだから「木っ端切れ」だとは、もちろん呼べないわけだ。しかし、この僧は、論理的観念の世界でのみ、応答しているに過ぎない。理屈に対して理屈で回答しており、あまりにも凡庸な回答なのである。けれども、禅の悟りは、理屈を越えた、別次元の領域に存在するのである。
 それに対して、典座の霊祐は、その瓶を蹴飛ばして去っていったという。
 瓶は蹴飛ばされて目の前からなくなってしまった。自分も去っていなくなってしまった。そこには、何も存在しなくなってしまった。存在しないのだから、もはや、何とも呼べなくなってしまったわけだ。つまり、見事に回答したのである。
 では、「瓶以外には何とも呼べませんと、言葉で答えればいいではないか」と思われるかもしれない。ところが、禅では、とにかくダイレクトに、いわば目の覚めるような鮮烈にしてショッキングな真実を目の前に顕現させることをめざす。なぜなら、悟りの境地とは、観念的でつかみどころのない観念ではなく、リアルな生活の実感そのものだからである。「瓶以外には何とも呼べない」という答えは、観念的には間違いではないが、リアリティの視点からすると、それは間違った答えなのである。リアリティある答え方とは、実際に目の前から、いかなる呼び名も与えられないような状況を顕現させることなのだ。つまり、この場合でいえば、瓶を蹴飛ばして自分も立ち去ってしまうことなのである。
 また、この公案には、修行僧と典座という二人の僧を登場させているが、ここにも、教訓的な意味合いが感じられる。つまり、座禅ばかりしている僧は、現実から遊離した観念の悟り(もちろん、これは本当の悟りではない)に陥りがちであるのに対し、生活の実践を修行にしている典座こそが、本当のリアルな悟りを開くという教訓である。

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