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                 禅問答の世界(第16問「枯れた木」)

 第16問「枯れた木」

 ある老婆が、一人の修行僧を世話して二十年がすぎた。
 あるとき少女が修行僧に抱きついて誘惑した。
「さあ、私をどうなさいます?」
 僧はまったく動揺せずにいった。
「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心はまったく熱くならない」
 この言葉を少女から聞いた老婆は、激怒していった。
「自分は、こんな俗物を二十年も世話していたのか!」
 そして僧を追い出し、庵も汚らわしいといって焼いてしまった。

−道樹録−



 第16問に対する私の考え方
 普通であれば、女性の性的な誘惑をはねつけたのであるから、これはまじめな求道者であり、清廉潔白であるとして褒められてもよさそうなのだが、そうではなく、「俗物で汚らわしい」として寺から追い出されたというのである。
 仮に、これが少女ではなく、「桜の木」であったとしよう。美しい桜の木を目にして、やはりこの僧は、枯れた木のように、心が熱くならないのだろうか?
 だとしたら、いったいこの僧の心は、石のように無味乾燥で冷たいということになる。桜の木は美しい。その美しいものを、美しいと思う感情こそが、まさに人間らしさであり、「仏の慈悲」につながるものではないのだろうか?
 こうした、桜の木を愛でる気持ちで少女に接するならば、決して枯れた木のように冷たい心にはならない。少女への慈悲(愛)に満ちた気持ちで、もっと生き生きとした会話がそこで為されたことであろう。
 おそらく、この僧は、少女を「性的対象」と見る意識がもともとあるから、「枯れた木のように心は熱くならない」といってはねつけたのかもしれない。ということは、つまりその時点で、性的な煩悩から実は解放されていないということを物語っているわけで、老婆が「俗物で汚らわしい」と嘆いた理由もここにあるわけだ。
「では、もしもあなただったら、どう対応したか?」
 こう問われたら、なかなか難しい。その女性を抱いてしまったら、戒律を犯したことになるだろう。もっとも、悟ってしまえば、戒律など何の意味もないわけで、仮に少女を抱いたからといって、それは必ずしも問題ではないかもしれない。ただ、その抱く気持ちが、相手を性的対象として抱くのか、あるいは仏を抱くような気持ちで、真心の愛によって抱くのか、問われるのはここだけであろう。
 しかし、禅にもダンディズムといったものがあるとすれば、そのまま少女を抱いてしまったのでは面白くない。何か他に、粋な対応の仕方はないだろうか?
 私なら、こう対応するだろう(これがダンディズムかどうかはともかく)。
「また、明日も来てくれない?」

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