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                 禅問答の世界(第12問「柏の木」)

 第12問「柏の木」

 ある僧が趙州に尋ねた。
 「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心とは何ですか?」
 「庭先にある柏の木だ」
 「和尚、たとえはやめてください」
 「私は、たとえなどしていない」
 「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心とは何ですか?」
 「庭先にある柏の木だ」

 −無門関−



 第12問に対する私の考え方
 
今までの考察でたびたび解説してきたように、禅問答の世界では、「たとえ」というものは、基本的に行わない。常に直裁的であり、観念(という虚妄)を突き破って現実そのものに向かい合うようにする。しかしながら、その現実を見つめる目は、ある種の「詩的な感性」とでもいえるような、あるいは霊感というわけではないが、事物の本質を透視する「直感」というようなものが伴っている。さて、この問答を見ると、「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心とは何ですか?」という問いに対して、「庭先にある柏の木だ」と答えている。一般的な感覚からいえば、これはたとえをいっているように思われる。しかし、たとえではないというのだ。
 そもそも、「達磨がインドから中国に来て伝えようとした心」とは何であろうか。これはいうまでもなく、「悟りの心」である。では、悟りとは何か? これは「仏性を開花させること」に他ならない。どのような存在にも、生きとし、生けるもの、すべてに、仏性は備わっている。自然界の生き物は、その仏性をありのままに開花させて生きている。庭先にある柏の木も、まさに仏性を開花させている存在なのである。花がその美しい花を咲かせている姿は、まさに花が自らの仏性を開花させていることであり、花はそのことを如実に表現しているわけだ。
 従って、師匠は、直裁的に、その悟りの心を、つまり達磨がインドから中国に来て伝えようとした心を表現している柏の木(もちろん、柏の木でなくてもいいのだが)を示したのである。
 ところがわれわれは、禅問答のこのようなやりとりが、何となく意地悪で、わざと格好をつけているかのような印象を受けてしまうこともある。つまり、「それは悟りの心である」と、言葉で説明すればいいではないか、その方が親切ではないか、わかりやすいではないか、と、こう思ってしまうのだ。
 しかし、そうではない。そのような言葉の説明の方が、不親切であり、わかりにくいのである。たとえば、「三角形とは何ですか」と問われたとき、あなたはどう答えるだろうか。「内角の和が180度になる図形のことである」などと説明するだろうか。それよりも、無言で三角形を描いて、それを示すであろう。その方が、よほどわかりやすいであろう。
 もしも、詩的な感性があれば、師匠の示した庭の柏の木に、仏性を開花させている姿を見ることができるのであり、師匠のいったことが、「たとえ」ではなく、まさに的確な回答であるということがわかるのである。

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