HOME書庫禅問答の世界

                 禅問答の世界(第18問「無言の説法」)

 第18問「無言の説法」

 釈尊の説法が始まった。が、ある日に限って何もいわず、そばにあった一輪の花を取って大衆の前に示した。
 ほとんどの弟子たちは意味がわからなかったが、ただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけは、にっこりとほほ笑んで深くうなずいた。
 それを見た釈尊は、静かにこういった。
「私の説法が摩訶迦葉に伝わりました」

 −無門関−


 第18問に対する私の考え方
 いわゆる「以心伝心」である。だが、これは単純にテレパシーのような能力であるということではない。お互いに共通して把握されているものがあるがゆえに、そのサインを示せば、それで何がいいたいのかが理解できる、というものである。では摩訶迦葉には何が伝わったというのか?
 おそらく、彼に、何が伝わったのかと質問しても、その内容を言葉でうまく説明することはできないであろう。彼は言葉で説明できないものを受け取ったのであり、釈尊も、それを伝えようとしたのである。もしも言葉で表現できるものを伝えようとしたのであれば、言葉で説明しているであろう。だが、言葉によって為される説法であっても、釈尊の伝えたかったのは、常に言葉を越えたものだったのである。
 さて、一輪の花を見て、なぜ摩訶迦葉は微笑んだのだろうか?
 たとえば、これが一輪の花ではなく、可愛い赤ちゃんだったらどうだろうか。
 その可愛い赤ちゃんが、あなたを見て笑ったとする。あなたもそれを見て、思わず微笑まないだろうか?
 では、なぜあなたは微笑んだのか?
 可愛らしかったから? 確かに、そうかもしれない。ならば、なぜ可愛らしいと微笑むのか? 単純に可愛らしいという感情だけではない、もっと微妙な感情がそこにわき上がってきたために、思わず微笑んでしまったのではないのか?
 普通、微笑む(笑う)という感情は、喜びの表現のひとつである。摩訶迦葉の微笑みも、それは喜びの表現であったといえるだろう。では、いったい何の喜びだったのか? 私たちが赤ちゃんを見て微笑む、つまり喜ぶのは、いったいなぜなのか?
 その喜びは、人間の深い意識から、仏性から来ているものなのである。
 そして、一輪の花であろうと、赤ちゃんであろうと、それを見て私たちが喜ぶのは、それは仏性を喜ばせるからである。そして、なぜ仏性が喜ぶのかといえば、それはまさに、仏性を表現している存在を見たからに他ならない。仏性と仏性どうし、同じ仲間に出合ったときの喜びなのだ。愛する人と会ったときの喜びなのである。これはもちろん、自分自身もある程度、仏性を開花させていなければ、共感としてわき上がることのない喜びであろう。
 すべての存在には仏性がある。私たちの感性が高くなれば(仏性を開花させれば)、赤ちゃんだけではなく、一輪の花を見ても、喜びをもって微笑むようになるであろう。そして、そこに仏性の存在を感じることができるであろう。
 すなわち釈尊は、「仏性」とは何かを、弟子たちに示したのである。仏性は、理論や理屈で把握できるものではなく、ある種の共感、体感的な感覚で把握されるものなのである。


 禅問答とは、何だったのか?
 
さて、これまで全部で19問の公案を考えてきたが、結局のところ、こうした禅問答の考察により、私たちは何を学ぶことができたのだろうか?
 一見すると、禅問答は、まるでわけがわからない。ともすると、何かもったいぶった、あるいは悟りすましたような、衒学的な印象を受けなくもない。けれどもそれは誤解であって、ここにはひたむきな真剣さ、あるいはまた、通常の私たちの感覚を越えた発想をめざしているということを、今までの考察によって理解していただけたと期待している。
 それをひとことでいうなら、禅とは、「リアリティ」をどこまでも追求していく、ということであろう。つまり、現実の追求である。英語で「現実化」のことをリアライゼーション(Realization)というが、これは同時に「悟りを開く」という意味でもある。要するに「現実認識」こそが悟りを開くということであり、しばしば誤解されるように、神仏だとか霊の存在を見たり、超能力などを発揮するといったこととは、まるで関係はない。
 さて、現実認識こそが悟りを開くことであるということは、前提として、私たちは現実を認識していない、早くいえば、現実ではない幻想に惑わされているということになる。仏教的にいえば、それは無知であり無明である。そこから煩悩が生まれ、そして苦しみが生まれる。これが仏教の教説である。
 では、私たちは、幻想を見ているのだろうか?
 幻想の中に生きているのだろうか?
 通常、私たちが「真実」とするものは、少し考えればわかるように、主観的意識に映し出された概念なり情報から、そう判断している。たとえば、目の前にリンゴがあるとする。極端なことをいえば、目の前にはリンゴは存在していないかもしれない。それは非常に精巧にできた模型かもしれないし、高度なハイテクによって映し出された幻影かもしれないし、あるいは、そもそもこれは夢かもしれない。だが、ただ見ているというだけでは、そこにリンゴがあるという「真実」は、私たちの「主観」が、勝手にそう決め込んだ結果に過ぎない。
 また、神というとき、私たちは、自分で勝手に作り上げたイメージや概念によって、それを認識している。たとえば、「髭の生えた老人」のようなイメージとして、あるいは、宇宙的な法則やエネルギーといった概念として。
 けれども、神の実像を客観的に認識することは、私たちにはできない。したがって、「神」は存在するかもしれないが、私たちには、神が存在する、ということを、厳密な客観的認識によって実証することはできない。まして、「神とはこういうものだ」という、それが有形であれ無形であれ、いかなる規定された輪郭やイメージを抱くこともできない。要するに、神は存在しても、私たちが把握している「神」は、すべて虚像であり、幻想である、ということになる。
 ところが、私たちは、主観に映し出された、こうしたあらゆる幻想や虚像を土台として物事を考えたり、感情的な反応をしてしまう。それが苦悩の原因となり、さらには、あらゆる障害、世界的な紛争や戦争の原因になっている。
 そこで禅では、主観が創り出した虚像ではなく、じかに現実を認識するように仕向ける。もちろん、それでさえも、主観を脱したことにはならないが(神以外には主観を越えることは不可能であろう)、虚像への盲信からは抜け出している。ただ、目の前に存在する現象そのものを、ありのままに受け入れる。
 表現を変えれば、何かの現象なり運命に遭遇したとき、余計な連想が働かない、というか、それにとらわれない心境である。たとえば「人を見たら泥棒と思え」とか「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」といったことは、ある事物に接したときに、真実ではない連想を働かせ、その連想を真実であると思いこんでしまうことを示している。ひらたくいえば「偏見」である。そして、この偏見が複雑に根深くなったものが「迷妄」であり「無明」である。
 禅問答は、こうした虚実の連想にとらわれる意識を目覚めさせるためのものである。そのとき私たちは、たとえばひとりの人間を前にしたとき、本当の意味で、その人のありのままを見ることができる。その人の社会的地位だとか、肩書きだとか、外見だとか、あるいは表面的な性格といったことさえも突き破り、その人の本来の姿を、いわば透明な視力によって見ることができるのである。
 では、いかなる虚像的な偏見や幻想によって曇ることのない目をもって、相手を見たとき、いったいそこに、私たちは何を見ることになるのだろうか?
 それは、人間の本質である「仏性」に他ならない。
 仏性を見たとき、私たちの心は“微笑む”。心が喜びで満たされるからである。では、それはどのような喜びなのであろうか。
 それは慈悲の喜び、愛の喜びである。すなわち、主観的幻想から目覚めた人には、愛がある。「愛の知識」だとか「愛の概念」ではなく、愛そのものがある。つまり、悟りを開いた人というのは、ただ愛に生きる人になるということなのだ。

  おわり

このページのトップへ