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                 禅問答の世界(第4問「仏教の根本」)

 第4問「仏教の根本」

 入門したての僧が、趙州和尚に尋ねた。
 「私は、修行に入ったばかりの者です。どうか、仏教の根本を教えてください」
 「朝の食事は終わったのか。まだか」
 「はい、食べ終わりました」
 「それならば、自分の茶碗を洗いなさい」


 −無門関−



 第4問に対する私の考え方
「仏教の根本を教えてください」と質問する新参の弟子に対して、まるでその質問を無視するかのように、朝食は済んだのかどうかと師匠が尋ねている。これは禅に特有の、観念的な心像をうち破るための直裁的なアプローチである。
 この公案について、ある人は、これは象徴的な比喩だと解釈している。すなわち、食事で汚れた茶碗とは、この世の煩悩のたとえで、その煩悩を洗い流すことが仏教の根本なのであると、こういいたかったというのだ。
 しかしながら、禅の世界では、こうした詩的なたとえで教えを説くことは、あまりしない。確かにたとえを用いることで、相手に微妙な感覚や強い印象を与えることはできる。けれども、しょせんは「仏教の根本とはこうだ」という知識を与えていることにかわりはなく、それならば、何もたとえを用いなくても、直接的に説明してもたいした違いはない。
 仏教の根本とは、「生きる」ということである。頭で知識や理論をもてあそぶことではない。どこまでも、どこまでも、この現実のリアルな世界にしっかりと足をつけて、真剣に生きるということが、仏教の根本である。
 ここでは、「仏教学」と「仏教」とは違うということを、よく知らなければならない。禅は学問ではなく、その生きざまである。仏教を学問としてとらえれば、その根本はもちろん、煩悩からの解脱ということになろう。だが、そのような知識など、仮にも仏教に入門してこようとする者であるならば、常識以前の問題としてわかっている。そのわかりきったことを、直接的にであれ、たとえであれ、答えるような師匠であれば、しようもない凡クラ坊主だということになるだろう。
 寺は、学問を学ぶ場所ではない。寺はそこで仏教の根本を表現する場所である。人々が悟りを開かないのは、頭の観念で人生を生きているからである。いわば、虚妄の人生を生きているからで、本当に生きているのではないのが原因である。だから、真の仏教修行では、とにかく真実に生きるということをめざすのであり、師匠もそのことを弟子に課していく。
 食事が終わったら、茶碗を洗うのが当然であり、それが「生きる」ということである。それは、高邁な仏教理論で頭がいっぱいな者にとっては、まるでつまらない平凡な作業に思えるかもしれないが、いくら高尚なことを考えていても、それは実在しない幻想にすぎない。食事をしたら茶碗を洗うという作業は、いくら平凡な作業であっても、現実であり、真実である。
 頭の中で、あれこれ理屈を考えながら、うわのそらで茶碗を洗っていても、それは本当の真実の生き方ではない。これは、新参の弟子が陥りがちな傾向である。そのことを、師匠は戒めるように、いかなるたとえを用いることなく、観念の説明でもなく、きわめてダイレクトに、新参の弟子に対して、足下を見つめることが仏教の根本であることを示したのである。
 ならば、読者の中には、私がいま説明したように、親切に教えてくれればいいじゃないかと思う人がいるかもしれない。妙に気取ったような、理解できないような指示を与える必要はないじゃないかと。
 だが、もしも今、私が説明したような説明をしてしまうならば、これは観念の説明となってしまうのだ。その弟子は、なるほど食事の後に茶碗を洗うであろうが、その行為をするときには「この行為は、地に足をつけて真実を生きるということなのだ」という理屈で頭がいっぱいになるであろう。これでは、本当に地に足をつけて真実に生きていることにはならない。「茶碗を洗っている」ことにならないのだ。単に、観念におどらされて、茶碗を洗っている「演技」をしているにすぎない。
 本当に茶碗を洗うとは、ただ茶碗を洗うことである。食事の後に茶碗を洗うこと、そのことだけに気持ちを向けて生きること、そのものなのだ。
 だから、まわりくどい説明はしないのである。決して、もったいぶっているわけでも、また気取っているわけでもないのだ。

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