禅問答の世界(第6問「南泉の猫」)
第6問「南泉の猫」
南泉の弟子たちが、一匹の猫をはさんで
「これはわれわれの猫だ」「いや、こちらの猫だ」と言い争っていた。
そこへ現れた南泉和尚は、猫の首をつかむと、それを突き出していった。
「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。さもなければ、この猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
だが、だれも答えられる者はなかったので、猫を切り捨ててしまった。
夕刻になり高弟の趙州が帰ってくると、お前ならどう答えたかと迫った。
すると趙州は、履いていた草履を頭に乗せ、すーっと部屋を出ていった。
「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに・・・」
南泉は、そういって非常に残念がった。
−無門関−
第6問に対する私の考え方
まず、どういう状況であったのかはわからないが、「この猫は自分のものだ」などと言い争いをしていること自体、かりにも仏道修行する者にとって、あまりにも低いレベルであることを認識する必要がある。これには師匠もあきれてしまったことだろう。だが、殺生を禁じる仏教修行者が、猫を殺すというのだから、よほどのことであると考えなければならない。不殺生はもっとも大切な戒律である。なのに、仏道にかなう言葉を発しなければ、猫を切り捨てるというのだ。そして、実際に切り捨ててしまったのである。
この世の中は無常であり、何一つとして「自分のもの」はない、というのが仏教の根本的な教えである。何一つ、自分の所有物ではないのだから、それが猫であれ何であれ、自分のものと考えること自体がおかしい。また、それゆえに、その猫を自分の思うようにしていいということもない。
なのに、師匠は、その猫の首をつかんで、この猫を切り捨てるぞ、といっているのだ。師匠であっても、そのような権利はない。猫は誰の所有物でもないから、猫の生命を自分の思うようにすることはできないのである。
つまり、実はこのとき、師匠も同じ間違いを(もちろん故意に)犯して見せたということなのだ。弟子は驚いたことだろう。殺生をかたく禁じる仏教の師匠が、猫を殺すというのだから。しかし、本質的に同じ間違いを自分たちがしていたということが、弟子達にはわからなかった。師匠が、実にインパクトをもったやり方で、弟子達のあやまちを身をもって示してあげたのに、その姿に自分たちの愚を発見することができなかったのである。
おそらく、このときに、「仏道の道にかなった言葉」というのは、あまり意味のないことであっただろう。おそらくどのような理屈をいっても、師匠は納得しなかったであろう。本当に師匠の姿に自分たちの愚を見たならば、恥ずかしくて言葉など出なかったであろうからだ。せいぜい、懺悔の言葉を吐くくらいであろう。懺悔の言葉を吐けば、師匠も許してくれたかもしれないが。
この話を聞いた高弟の趙州は、このような意図を理解したので、いかにおかしなことをしているか、ということを、師匠と同じように示すために、本来は足に履くべき草履を頭に乗せて、スーッと出ていった(ことで返答した)のである。
すでに述べてきたように、禅の世界では、言葉で説明するということはしない。弟子達の言い争いが、仏道の教えに反していかに馬鹿げているかということを、説明によって理解させる手段はとらない。なぜなら、説明しても、それは頭だけの観念で終わってしまうからである。禅では、とにかく、直裁に、ダイレクトに、真実を指し示す。それがあまりにも直接的なので、多くの人は理解できないのだが、しかし、師匠が身をもって示す行為から学び取れないようでは、弟子としてまだまだ及ばない、ということでもある。