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                 禅問答の世界(第3問「仏の道」)

 第3問「仏の道」

 趙州が修行中に、師の南泉(なんぜん)に尋ねた。
 「仏の道とは何でしょうか」
 「平常心(普段の心)が道である」
 「では、平常心が目標なのですね」
 「いや、目標ではない」
 「目標でないなら、どうやって道を求めるのですか」
 「道というのは、求めるとか求めないといった問題ではないのだ」

 −無門関−



 第3問に対する私の考え方
 この公案も、今まで見てきた一連のものと、内容的には共通した暗示を秘めている。すなわち、目的と手段という、二元的なアプローチへの否定である。
 趙州は、仏教の修行、すなわち「道」が、何かを得るための手段であると考えている。平常心の獲得を目標として、そのための手段が道であると考えている。だから、平常心を得るためには、その手段である道を求めなければならないと考えている。ところが師匠の南泉は、平常心は目標ではないというのである。道とは、求めるとか、求めないとか、そういった問題ではないといっているのだ。これは、いったいどういう意味なのだろうか?
 古代ギリシアのある哲人が述べたパラドックスの話を引用しよう。有名な「アキレスと亀」である。足の速いことで知られるアキレスは、亀とかけっこをしても、決して追いつくことができないというのである。屁理屈なのだが、内容はこうだ。百メートル先に亀がいるとしよう。アキレスは、その亀がいる地点をめざして猛スピードで走り出す。だが、アキレスがその地点についたときには、亀もゆっくりとではあるが進んでいるので、彼よりも少し前のところにいる。そこで再び、アキレスは亀がいるその地点をめざして走るが、そこに到達するまでには多少の時間はかかっているので、亀はその時間だけ前に進むことになる。こういうわけで、決してアキレスは亀に追いつけないというのである。
 現実には、このようなことはあり得ないのだが、この説明だけを聞くと、何となくもっともらしく感じられる。この理屈の、いったいどこがおかしいのであろうか?
 それは、アキレスが、亀を目標にしているからである。走り出す時点における、亀のいる位置を目標にしているからだ。何も、亀を目標にする必要はないのであって、亀の存在など気にせず走り続ければ、亀を追い越すことができるのである。だが、アキレスは亀を目標にしているので、亀を追い越すことはできない。
 同じように、平常心を目標にしたら、いつまでたっても平常心は「目標」であり続け、決して平常心を自分のものとすることはできない。
 平常心への道というものを、二つの点を結ぶ直線的な概念で認識すると誤りをおかす。平常心はすごろくのゴールではない。平常心そのものが「道」なのである。つまり、道は“求めるもの”ではなく、“歩むもの”なのである。
 いまこの時、この場所おいて、平常心で生きること、それが道なのである。求めるとか、求めないという問題ではないのだ。
 だが、このようにいうと、次のような疑問が出てくるに違いない。
「そんなこといったって、現実には平常心なんかになれない」
 その通りである。だが、なぜ平常心になれないのだろうか?
 それは、「平常心になれない」という思いにとらわれているからである。
 本当の平常心とは、平常心になれなくても平常でいられる心なのだ。平常心でいられなくても、それをどうにかしようとあがくことなく、平常心ではない心を受け入れる心なのである。
 だが、それでもなお、続けて、次のように怒るかもしれない。
「そうなれないから苦労するのではないか!」と。
 それに対して、禅の師匠はこういうに違いない。
「なら、苦労しなさい。平常心になろうとするのをやめさない・・・」

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