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                 禅問答の世界(第2問「犬の仏性」)

 第2問「犬の仏性」

 ある僧が、趙州(じょうしゅう)和尚に尋ねた。
 「犬のようなものにも、仏性(仏の性質)がありますか?」
 「ない」
 「なぜないのですか?」
 「自分に仏性があることを知らないからだ」

 −無門関−



 第2問に対する私の考え方
 この公案の内容は、すぐに自己矛盾を抱えていることがわかるだろう。すなわち、犬には仏性はないといいながら、最後の節では「ある」といっている。では、なぜないというのかといえば、その自覚がないからだという。
 これは、本当は仏性はあるのだが、ないと思っているので、「ないのと同じ」という意味なのだろうか?
 禅では、あまりこうした心理的な解釈はしないとみてよい。つまり「仏性はあるのだが、ないと錯覚している」というような意味ではない。もっと純然たる厳しい解釈をする。すなわち、仏性の自覚をもたないと、本当に仏性は存在しないのである。このことは、仏性というものは、観測されたときに素粒子が存在するという、量子力学のミステリーを思わせる性質であることを示している。いわば、仏性とは、「自己の本性の自覚」そのものである。
 量子力学において、観測されるまで素粒子の存在が特定できないという理由は、測定されるまで波動的な状態として散らばっているからで、観測されたときに、その波動が収束して観測された位置に物質化するからである(この記述は厳密には少し正確さを欠くが)。
 仏性も同じく、森羅万象、あらゆる生命にあまねく存在しているのであるが、それは喩えるなら「波動」的な状態としてであって、実体をもった存在としてではない。だから、それは、通常、私たちが「ある」というように定義できるような状態ではない。
 たとえば、この空間には音楽が電波という形で(物理的にいえば)存在している。しかし、音楽が本当に存在するのだといえるためには、ある一定の地点で、その存在を示す現象が観測されたときである。たとえばラジオのスイッチをつけて電波を受信し、音の振動を耳にしたときである。なぜなら、音楽とはあくまでも音の振動だからである。いくら電波として空間に存在しているとしても、それが音として鳴らされない限り、音楽は存在していないのである。
 そして、それが音とし鳴らされるとき(存在するとき)とは、ラジオなどで“観測されたとき”なのだ。したがって、音楽は観測されるまで存在していないのである。
 仏性も同じである。自分には仏性があるのだと本当に自覚しなければ、仏性は存在しない。
 つまり、悟りとは、仏性を「観測」することなのである。

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