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                 禅問答の世界(第5問「太鼓を叩く」)

 第5問「太鼓を叩く」

 ある僧が禾山(かさん)和尚に尋ねた。
 「悟りを本当に得るとは、どんなことですか」
 禾山は、ただこう答えた。
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「ならば、最高にありがたいものとは」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」

 −碧巌録−



 第5問に対する私の考え方
 結局、どのような質問を受けても、師匠は同じことしかいっていない。「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」だけである。最初の質問はこうだ。「悟りを本当に得るとは、どんなことか?」。これに対して「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」と答えている。
 いったい、太鼓を叩くと、どのような音が出るのだろうか。それは「ドンドン、ドドン」である。つまり、師匠は当たり前のことをいっているのだ。
 この公案も、前回の公案と本質的には相通じている。やはり、この場合も、ある種の比喩を説いているのだと考えたくなるが、そうではない。すなわち、「太鼓」とは「仏法」のことであり、太鼓を叩くとドンドンと音がするように、仏法を行ずれば、まさにその通りの結果が出る、功徳を得られるぞといった比喩である。だが、このようなまわりくどい説明は、たとえそれが比喩であろうとそうでなかろうと、禅ではやらない。それでは観念の説明になってしまうからだ。餅を絵に描いて説明するようなことはしない。禅では、ストレートに真実を目の前に示す。餅そのものを目の前に差し出して「これが餅だ」というのである。
 そして、それに対して感応することのできる資質をもった弟子だけが、あるいは、そこまで修行を積んで準備のできた弟子だけが、師匠の示す直裁的な指示によって悟りを開くことができる。
 悟りとは、当たり前のことを、当たり前のこととして、ありのままに認識する心以外の何者でもない。ところが私たちは、主観的な観念や思考などにがんじがらめにされ、物事を、そのありのままに、直接的に把握することができない。どうしても、理論や理屈、偏見などによって、いわば「間接的に」しか認識できない。換言すれば「翻訳」してしまうのである。
 けれども、太鼓を叩けばドンドン、ドドンと音がするのだ。いったい、それ以外の、いかなる解釈があるというのか?「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」といわれても、いったい、これより他に、どういえばいいのか? いくら相手がどんなに偉い人であっても、他に何といえばいいのか?
 いかなる翻訳をすることなく、ありのままを、ありのままに認識することが、悟りを本当に得るということなのだから。悟りを開いた心には、太鼓を叩けばドンドン、ドドンと響くのである。
「悟りを開いていなくても、太鼓を叩けばドンドン、ドドンと聞こえますよ」
 このようにいわれるかもしれない。
 確かに。だが、本当にドンドン、ドドンという「音」など聞いていない。私たちはただ、「ドンドン、ドドン」という「言葉」を聞いているに過ぎない。しかし「言葉」は、音そのものではないのだ。

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