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                 禅問答の世界(第15問「一本の指」)

 第15問「一本の指」

 どんな質問を受けても、ただ指を一本立てるだけの倶胝(ぐてい)和尚がいた。
 寺にきた客が小僧に法の説き方を尋ねた。すると小僧は、和尚のように指を一本立てた。それを見た和尚は、小僧のその指を切り落としてしまった。
 泣き叫んで逃げる小僧に、和尚はいった。
 「おい、こっちを見ろ!」
 小僧が首を向けると、和尚は例のごとく、指を一本立てていた。
 それを見て小僧は、その場で悟った。

 −無門関−


 第15問に対する私の考え方
 
この問答が本当にあったことなのかどうかはわからないが、もし実話に基づくものであったなら、まったく禅の世界というのは、荒っぽいものである。だが、それほど真剣であったということで、指の一本や二本などよりも、悟りを開く方がずっと大切なことだったのだ。
 それはともかく、どんな質問を受けても、ただ指を一本立てるだけというのは、いったいどう解釈すればいいのだろうか。ここで問われるのは、指が一本、ということであろう。つまり、「ひとつ」ということを示していたのであろう。では、いったい何が「ひとつ」なのか? また、どのような質問でも、「ひとつ」ということを示すことで事が足りてしまうというのは、どういうことなのだろう?
 この世の中にひとつしかないもの、それは「真実」である。だが、私たちはしばしば、真実を多面的に見る。象の鼻を触ったり、足を触ったり、胴体を触って「これが象だ」と勝手に思ってしまう。それらは象の一面であるが、一面は象ではない。象の真実とは、その全体のことである。私たちは、さまざまな偏見や観念、その他、自分勝手な思いこみなどにより、真実の断片だけを見て、それが真実であると思いこむ。つまり、それが「迷い」である。
 悟りを開くとは、そうした断片を見るのではなく、常に全体である「ひとつ」を見ることにある。言葉によってなされた質問の一切は、しょせんは断片を見ているに過ぎない。だから、そうした断片的な質問にいくら答えたとしても、それで悟りが開けるわけではない。問題は、ひとつの全体を見ることなのだ。師匠は、そのことをただ指一本で示していたのである。
 さて、そんなとき、師匠のいない間に、小僧は客に対して、師匠のマネをして、指一本を立てた。それはマネだから、「真実」ではない。いわば、鏡に映し出された真実の「幻影」である。だが、小僧は幻影だとは思っていない。師匠のマネをすれば、真実を語っていると錯覚していた。
 そうして、師匠は、小僧の指を切り落とした。そして自分の指一本を見せた。それはまさに、鏡に映った虚像ではない、たったひとつの真実そのものであった。このときに、小僧は、自分の差し出した一本の指は、ただ幻想を示していたに過ぎないことに気づいたのである。それと同時に、自分が頭の中であれこれと思いめぐらせていた、すべての思考や考えや観念が、真実ではなかったことが把握されたのである。すなわち、迷妄は破られたのであり、小僧はそのときに悟ったというわけだ。

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