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                禅問答の世界(第8問「窓を過ぎる牛」)

 第8問「窓を過ぎる牛」

「牛が窓のところを過ぎていく。角、頭、体、足が過ぎていった。しかし、なぜか尾が過ぎていかない。これはどうしてなのか?」


 第8問に対する私の考え方
 これは、まさに「なぞなぞ」のような公案である。牛が窓のところを過ぎていく。角、頭、体、足が過ぎていったという。これは、人が家の中にいて、窓を見ているという設定であろう。その窓の外を、牛が歩いているわけだ。そこで、最後の尾が過ぎていかないとすれば、それは単純に考えて、牛がそこで止まったからである。
 だが、これで終わっては、この公案は、何の変哲も意味もない、本当に単なる「なぞなぞ」でしかない。そこで、禅問答の世界では、このようなつまらない問いに対して、“まともに(正攻法に、というべきか)”答えを述べるというのは、やや芸のないことになる。禅では、もう少し“粋な”答え方をして、そのつまらない質問を、逆に活き活きと意味あるものに変容させてしまう、ということをする。これは、日常生活の、一見するとつまらなく、平凡でくだらない事柄に対処するときにもいえることで、対処するこちら側が、粋な対応やヒネリを効かせた対応をすることで、くだらない些事に意味が出てくるということがあり、人生はそのように生きるべきだということを示してもいるわけだ。
 では、どのような答え方をすればいいだろうか。もちろん、これに正式な回答というものはない。この質問は、「なぜか、尾が過ぎていかない」といっている。つまり、尾が過ぎていくのが当然だと思っている。だが、それは先入観であり偏見である。尾が過ぎていかなくても当然なのだ。この部分で、意識がひっかかってしまい、先へ進まないのだ。だから、たとえばこう答えたらどうだろう。
「尾が過ぎていかないのではない。あなたの心が過ぎていかないのだ!」
 この答えは、どこかで聞いたことがあるような・・・

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