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                 禅問答の世界(第1問「瓦を磨く」)

 第1問「瓦を磨く」

 馬祖道一(ばそどういつ)は毎日座禅ばかりしていた。
 そこへ師匠である南嶽懐譲(なんがくえじょう)がきていった。
 「何のために座禅をしているのだ」
 「仏になるためです」
 すると南嶽は、落ちていた瓦を拾って磨き始めた。
 「師よ、何をなさっているのですか?」
 「瓦を磨いて、鏡にしようとしておる」
 「瓦を磨いても、鏡になるわけないではありませんか」
 「ならば聞くが、座禅をして仏になるのか?」
 「同じことなのですか?」
 「牛車が動かなくなったとき、おまえは牛を打つのか、車を打つのか」

 −宗門葛藤集−



 第1問に対する私の考え方

 さて、第1問は、第0問と、基本的には同じ種類の質問である。
「牛車が動かなくなったとき、おまえは牛を打つのか、車を打つのか」
 当然、打たなければならないのは、牛の方であって、車ではない。つまり、本末転倒していることをいっているわけだ。同じように、座禅をするから仏になるのではない。仏であるから座禅をするのである。
 仏になるために座禅をする人は、今の自分を否定して、「仏」という別の存在になろうとしている。だが、人間の本質はすべて仏性なのだ。だから、自分を否定するということは、すなわち仏性を否定しているということになる。つまり、仏になろうとしている人は、皮肉にも、仏性を否定しているのである。これでは、いつまでたっても悟りなど開けるはずはない。
 座禅は、仏になるための手段や方法ではなく、すでに仏そのものの姿の実証である。座禅とは、自らの仏性を表現した、ひとつのあり方なのだ。
 だから、座禅は悟りを開くために行うのではない。仏性という、本来の姿をただ存在せしめているだけのことだ。だから、座禅は、何の目的もなく、ただ行うのである。あたかも呼吸をするような当然のこととして、それを行うのだ。
 ところが、ここで大きな落とし穴というか、錯覚に落ち込む罠がある。それは、座禅の格好をしているだけで、すでに自分は悟りを開いたのだと思いこんでしまうことだ。こうなると、幻想と自己満足の世界に落ち込んでしまう。人は、自分が悟りを開いていると思いこみたがる。高慢の罠がそこに潜んでいる。たぬきに化かされるように、悟りの夢を見てしまうのだ。これが「野狐禅」といわれるものである。「私は悟りを開いた」などといっている人のほとんどは、野狐禅であると思って間違いはない。
 なぜなら、仏性にはエゴはないからだ。エゴとは、自他を差別し自分を優越的な立場に置く衝動である。悟りを開いた人にエゴはない。自分という意識はない。つまり、そこには真の意味で「愛」がある。そして、真に愛する人は、自分が愛していると意識してはいない。ただ愛する行為そのものに我を忘れている。そして「私は愛している」とはいわない。愛とは自他の区別なき一体感である。「私は」という言葉が使われることはないのだ。同じように、「私は悟りを開いた」という人は、悟りを開いてはいない。悟りを開いていれば、そこに「私」は存在しないからである。
 座禅は、この「私」の存在しない姿の表現である。「私は仏になるために修行するのだ」という思いでいくら座禅をしても、それはまったく座禅にはなっていないのである。

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