『夜のゲーム』について
韓国の作家 オ・ジョンヒ(1947〜)は政治的事件を直接のテーマとするのではなく、普通の人々の日常生活と心を通して社会の不安を描くという手法をつらぬいた作家である。1968年に大学生作家として登壇し、1979年「夜のゲーム」で李箱(イ・サン)文学賞、1982年「銅鏡」で東仁(トンイン)文学賞と、韓国の二大文学賞を受賞した。その作品はアメリカやヨーロッパでも翻訳されて高い評価を得ている。現在も創作活動を続けながら、東仁文学賞の審査員をつとめるなど、韓国現代文学界の重鎮として活躍中である。
本書にはオ・ジョンヒの代表作「夜のゲーム」と、中編「あの丘」の二編を訳出した。
「夜のゲーム」の主人公は父親と二人暮らしで独身のまま中年に近づいている女性である。母親は精神病院で死に、兄は家を飛び出して行方不明。彼女は母親の病気のせいもあって結婚できないまま父の経済力に頼って暮らしている。父のもとから出ていくことを夢見ながら、夜ごと父のいかさま花札の相手をし、そっと家を抜け出しては工事現場で労働者と密会する。彼らの密閉された空間をみたしている悪意と暴力の空気は、1970年代の軍事独裁政権時代に韓国社会に流れていた空気と通底する。この作品が1979年に李箱文学賞を受賞したのは、まるで周囲の邪悪な空気を凝縮させて吐きだしたように密度の濃い文体から当時の知識人たちがカタルシスを得たからであろう。
それから30年後、映画監督チェ・ウィアンは父娘の密閉空間に充満した悪意と暴力の空気を現代の家庭内暴力へと結びつけ、父の暴力で聴覚と言葉をなくした娘を主人公に映像美あふれる作品『夜のゲーム』(2008年)を制作して話題を呼んだ。
もう一つの収録作品「あの丘」も父と娘の関係を扱っているが、作品内の雰囲気はかなり変化している。この小説のテーマは<和解>である。家庭をかえりみない父親のために惨めな少女時代を送った主人公は学生時代の恋人に棄てられたことまで父に責任転嫁して恨みつづけている。そして家に転がりこんできた父とついに衝突するが、父が姿を消したあと、父のメガネで世界を見ようという気になる。民主化闘争の渦中で青春を送って傷つき、家庭という城に閉じこもっていた主人公の脱皮と和解への予感を抱かせる結末は、この作品が書かれた1989年という時代を反映している。このころ韓国は高度成長をつづけながらソウル・オリンピックを成功させ、市民意識の成熟によって民主化を達成しつつあった。
このようにオ・ジョンヒの作品はつねに社会の雰囲気を映し出しているのである。
波田野 節子(新潟県立大学国際地域学部教授/NHKラジオ「まいにちハングル講座」講師)
【 書評から 】
「社会の激動に対して、孤独を抱えながら生きる人々の姿が印象的。……とてもこなれた訳だ」
(毎日新聞 2010・3・3)